2006-07-01

リテラシー

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個人のホームページは利益収益性を抜きに考えれば有名ポータルサイトと互角であることに気付いた。表現アピールするその内容が誰によって構成されているか、そこが問題なのである。その企業所帯が大規模であれば、相応の知名度と営業成績が重要となるが、個人のホームページでは、それとはまったく関係ない。そこにアドセンス広告が貼り付けられることは、どのような意味が生じているのだろうか。このページに貼られた広告をマジマジ眺めていてそんなことを思った(サイト主はクリックすることができない)。
「広告の内容はホームページに書かれたコンテンツに沿って自動的に更新され運営者は何も努力しなくとも-好きなこと-を書いて人々に発信しているだけで広告収入を得られる」、とアドセンスを解説するのは佐々木俊尚氏である。
その当事者としての意見を述べれば、サイト運営者個人の持つ履歴が大きな 要素を占め、それによって表現内容も決められる。アドセンスと云う、まったく新しい広告スタイルが出来上がって、更にインターネット世界の個人ホームページというコンテンツが確立した中で何が表現可能か、と云う歴史上前例のない問題意識に迫られている、ことを私は感じたのである。
この問題に精通している梅田氏の意見を要約してみると次のようになる。
映像ツール、音楽編集ツール、ワード・ソフトツール、イラスト・タブレットツール等々、我々に与えられているからと云って、それが優れた表現者であるとは限らない。しかし、それらを使って以前にもましてよりレベルの高い言語表現・アート表現が可能になったことも事実である、とそんなことを著書で述べる。両氏の意見は「本」という制約の中での記述だから、やや大雑把であることは致し方ない。このサイト運営当事者として補足すると具体的にはこうなる。
音楽編集ツールを使ってオリジナル曲を作るとする。デジタルキーボード、それも高価なものではなく子供にプレゼントする2万程度のキーボードで用が足りる。基本のリズムセクションは内臓されている音のソース、ドラム・ベース、それに合わせた旋律コード編成でまず大まかな曲調を作る。それを一端保存して、モニターしながら次の音源ソースで色付けする。格調高くドラマティクにしたいのならオーケストラ弦の音を選びエディターでリバーブや各種エフェクターを被せてれば大編成オーケストラバック着きの曲が出来上がる。内臓された各種音源ソースと処理の仕方をマスターしていれば30分程度で出来上がる。総てデジタル処理で、それと同等のことをアナログ機材でやろうとすると、とんでもない時間と金がかかる。まして出来上がった曲はノイズだらけの不快音ばかりでまったく徒労という結末に終わる。それでデジタル技術の凄さが判る筈だ。また映像編集ではデジカメ、マルチメディア動画、タブレット・アートなど選択肢は様々に展開する。それらを習得するにはマニュアルを手引に反復学習すれば師匠はいらない。
このように個人のリテラシー表現能力は大ハバ、どころではなく驚異的に拡大した。そうしたコンテンツを使い分け、個人が自分のポータルサイトともいうべきホームページの中に展開することが可能となったのである。この無名の個人が提供するツールを訪問者は見て聴いて楽しむことができる。軽妙洒脱なブログを読みローカルな写真を見る。動画ツールを挿入すれば短編映像もあり、また音楽など私がしている「雅楽」をセットしておけば、日常では遭遇できない音楽を聴くことができる。世界規模のネット社会は世界各地の限定的ローカル色が豊富で私のカテゴリーである世界の民族音楽など、その土地に住むサイト運営者が地元の音楽を載せておけば、日本に居ながらにして世界の民族音楽が聴けると云うわけだ。それも市販されている高価なCDよりもダイレクトな音がデジタルによって世界中を駆け巡る。
ホームページ運営者たる無名の個人は「アドセンス」という広告媒体がセットされたことによって、既存のメディアが展開する広告主番組提供関係と同じ立場に立った。それはwebページが単なる日常日記記述という枠を超えて、番組本体の製作者、そして個人が持つ表現能力を駆使して従来とはまったく異なるメディア戦略が可能である。ましてクライアントの注文など気にすることなく、自分の思うがままの音楽・映像・イラストを表現すればいい。
この提案と実行が実現すれば、旧来そして既存のメディアがやっている不特定多数に向け「撃てば当たる」ような漠然としたものではなく、「誰が誰に対して」という超限定したコンテンツ提供が実現する。そうした関係が成り立てば広告主自体も必然的に変化し零細ではあるが優れたテクノロジーと製品をもった企業を誰が宣伝してくれるか、という関係も派生する。
たった一台のパソコンは、それを実現できるキャパシティをもっている。Googleが動機を与えたアドセンス広告は、インターネット世界に再び新たな可能性を提示したことになる。おそらく、いまのブログは将来的には、そのような道に進むのでは、という予感を抱かせる。
19世紀、イタリア経済学者パレードが提唱した20%対80%比率のパレードの法則が今も生き続けている商業社会の中で、既存の巨大企業は生き延びてきた。その中で個人の存在は玉石混交の中のミクロン以下の石でしかなく「箸にも棒にも」引っかからない木っ端の存在としか見られていなかった。
インターネットを介したパソコンが、それを根底から覆す明日が、やってくる、かもしれない。

2006-06-30

猿とヒト

Posted by Picasa photo:パソコン画面 音の形

ヒトの歴史、700万年前にアフリカで誕生、100万年前にアフリカを移動し始めた、というのが現在の解釈でそれが定説となっている。
2004年オーストラリアなどの研究チームが新種の小型人類「ホモフロレシエンシス」の化石確認した。
新聞ニュースには写真がのっており、現代人の頭蓋骨と比較してあるが、やや小さめの「ホモフロ…」頭蓋骨は、人間といえば人間、猿と見ればサルに見えるが、700万年前から様々に枝分かれした人類祖先を特定するというのだから一筋縄ではいかない。
定説では、アジアではソロ人やダーリー人がさらに進化し我々の新人ホモサピエンスになり欧州では旧人ネアンデルタールが新人クロマニヨンに進化した、というのが通説だ。それでアジア系原人の祖先は北京原人ジャワ原人に遡るとした研究報告もあるが、その後それらは絶滅し、人類起源はアフリカの一人の遺伝子から始まる、という説が浮上した。「アフリカ単一起源説」がそれで、新人は20万年前にアフリカの旧人から進化し10万年前から世界各地に拡散した、という説がいま主流である。
問題の「ホモフロレシエンシス」は70万年前ジャワ原人の子孫で現代人とは別系統とされる。
日本で縄文時代が始まる約1万2千年前まで棲息していた可能性があり、小島などに隠れていたため小型化して生き延びたと推定している。
主流定説からするとジャワ原人北京原人の種は絶えたことになっており、その種「ホモフロレシエンシス」が縄文時代1万2千年前まで棲息していたという研究結果と相容れない。
それが今回の「新種」発見であり、これまで主流とされた単一起源説に一石を投じるかも知れない研究結果、ということだ。
日本の縄文時代、そして石器時代も考古学的には幅広く研究されているが、縄文人から弥生人に変化した、その理由と説に決定的なものがなく未だ未知の世界と私は思っている。
グローバルな現代社会、世界の壁がインターネットによって超えられようとしている。もしかすると、1万年前にはそれと同じような劇的変化があったのかもしれない。海洋の民が高度な舟技術を背景に日本に上陸した可能性もあり、ブロードバンド大容量高速情報網がアメリカよりもたらされたことを思うと、「なんだ、人間なんて1万年まえとちっとも変わってないじゃないか」と何故かホッと安心してしまう。

2006-06-27

タイムマシンより俯瞰


Posted by Picasaphoto:小花シリーズ3 
茎の繊毛と花のサイズでそのスケール6ミリ程度が判ります


新聞のスクラップは、しばし時間を逆回転して、その事実が過去の出来事でありながら嘘のないリアリティとして、つい読みふけってしまう。その報道が「嘘か真か」を判断するのは歴史が証明するが、一年も満たない時間で新たな真実が露呈するとは甚だ現代的で、それほど時間の進み具合がスピードアップしている現代社会だと認識させられた。その事件とは…。

2005年10月7日読売新聞のトップ記事に ネット記事「見出し無断配信違法」知財高裁判決本社逆転勝訴 初の司法判断 ネット会社に賠償命令 など見出しを抽出してみた。これで大方の内容の検討は付くと思う。相手は神戸のIT会社「デジタルアライアンス」。当事者に関するニュースだからトップにしたのだろう(ではDA側の言い訳は何処にすればいいのだ?)。
世間は余り騒がなかったし私も関心はなかった。ところが、この高裁判決の逆転判決のウラには虚虚実実の駆け引きと、アメリカの思惑と、日本のIT産業の将来を左右する重要なシークレットが隠されていた。その時点では日本側の司法でも、それに関する情報を持っていなかったのでは、と推測できるほどアメリカ側のしたたかな計算があった。
知財勝訴、その理由。「記事の見出しには著作権はないがデジタルアライアンス社は不法行為で利益を得ている」とし、23万円余りの損害賠償支払い命令を下した。事の成行きは2002年12月に違法に著作権を侵害したとして読売新聞社が提訴したのがキッカケだ。その結果は2004年3月、東京地裁一審判決「見出しは記事ではない」として敗訴。その結果を諮ったようなタイミングでGoogleのニュース日本語版サービスが開始、だが日本の三大新聞は拒否した。さらに話は推移し三大新聞はGoogleに記事を提供するようになる。その経緯についてはGoogle社側が新聞社に対して著作権支払いを提示し受託され今に至る。時期が前後するが、では高裁のDA社に対する損害賠償支払命令23万円は何なのか。世界のメディア界では依然Googleに対して門戸を閉ざしている。
パソコンを作動させるOSはアプリケーションプログラムインターフェイス・API規約に準拠して作られる。そのOSが規約に則していることを提供する義務をメーカーは負わされている。しかしマイクロソフト社は総てのAPIを公開せず、その一部を隠蔽していたと、まことしやかな風説がある。それを仮定の上としてマイクロソフト社を考えれば、パソコンOSの覇権99%を掌握し30兆円の時価総額企業になり得たと換言してもいい。この話しを「似て非なるもの」として強いて喩えるならば、読売が講じたDA社への提訴、そして著作権を守るはずの方策は時代の趨勢Googleにひれ伏した、と揶揄されても反論の余地はあるまい。ビジネスの世界であるから金銭のやり取りで契約が成立する。その点で読売とGoogleは争い事もなく 金で解決したのだろう。では敗訴した地方の微弱な一企業DA社の23万円賠償支払いは本来誰が受け取るべき賠償金だったのか。これが30兆円のスケールなら誰もが色めきだつ。国内のライブドア損害賠償問題、村上ファンド事件を参考にするまでもない。
超高度から撮影した衛星写真からは、そんな人間世界の欲得はまるで観えない。その俯瞰図は過ぎ去った過去の話し、2005年10月のことだ。

2006-06-26

トフラー氏の予想

Posted by Picasa photo:小花シリーズ、更に小さな野草

2005年 7月24日の読売新聞に載ったトップコラム「地球を読む」寄稿、アルビン・トフラーの記事は、いま世界中に蔓延しているブログを的確に予想していた。その全文が正鵠を得る内容で全文掲載したいところだが、インターネットと軋轢関係にある新聞社のことであるから著作権の関係上一部引用に留めておく。以下引用文。

プロの権威への反乱 インターネットの宇宙で爆発的に広がるブログである。何百万もの人々が、これも何百万人もが読むことを期待して自分の意見をそこに書き込んでいる。

長年、職業的な訓練を積んできたジャーナリストや編集者たちは、これに苛立ちブロガーによる報告や発言の信頼性を疑問視する。だが逆に、ブロガーや一般の人々の側はこう問いかける。「主要メディアのニュースなど信頼できるものか。ニューヨーク・タイムズ紙は過去の幾つかの記事が作り話や盗作の塊だったのを認めたし、偶像的な米テレビ・キャスターの一人、ダン・ラザーは州空軍将校だった若い頃のブッシュ大統領の行いを薄弱な根拠で攻撃して信用を失ったじゃないか。最近ではニューズウィーク誌がイスラム教聖典コーランをグアンタナモ基地の米兵が冒とくしたことを記した米政府報告書があるとし報じ、後日撤回した。記事が正しいのか、それとも訂正と撤回の方が正しいのか、世間は釈然としていない。」 政府がメディアを操作している世界に住む多くの人々は、ニュースとされるものの怪しさをとっくに学んでいる。だがそれは報道が自由な民主主義諸国では、あってはならないことである。

情報の信頼性に高まる疑念 反専門化主義の動きと密接に結び付くのが、その道の専門家と一般人を隔てる「資格」要件に対する疑惑の増大である。この制度はまた、しばしば学者や医師など専門職の人々に資格条件をごまかすようそそのかす。例えば大学教授職の志望者の場合、書いた論文や本の内容よりも、それを幾つ書いたかで判定されるかもしれないである。要約すれば、古い制度は正統性の危機に直面している。これは権威の危機である。情報と資格制度に関する専門家たちの独占体制に風穴を開けることによって、人々は、いわば自分自身が自分のための権威となることを模索しているのである。> 以上、トフラー氏のコラム記事。

この記事が現実化した約半年後に、その兆候を鋭敏にキャッチした梅田望夫氏著書「web進化論」(2006.2.10発行)には、次のような記述がある。「つまるところプロフェショナルとは何か、プロフェショナルを認定する権威とは誰なのか、という概念を革新するところへとつながっていく。英語圏では分野限定的だかこの問題が表面化しつつある。ネット上で語り合った結果まとまってくる情報の方が権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家)によって届けられる情報よりも質が高い。そんな予感を多くの人たちが持ち始めた。そしてこの予感が多くの分野で現実のものとなり、さらに専門家もネット上の議論に本気で参加しはじめるとき、既存メディアの権威は本当に揺らいでいく。」

前者トフラー氏、後者梅田氏の論旨は、いま世界中を席捲しているインターネットの脅威を抜きに語れない内容だった。仮にその脅威が存在しなかったなら、「反専門家主義」「権威を認定するのは誰か」、という問いそのモノも存在しない。そして最もリアルタイムな今こそ、インターネット世界が旧来より伝統的に継承してきた既存の概念が覆されるという予感を我々権威外の者に抱かせてくれる。玉石混交にありながら世界中に散在する、かたわらの「石」が今まさに語り始めた。私の書くこの記事は、路傍に咲く僅か数ミリの花のようでもあるが数ミリ円の中にも完結した宇宙が存在し森羅万象のスケールを、そこに投影している。見せ掛けの権威者たちはこの領域に侵入することは絶対できない。トフラー氏の慧眼による一説、「政府がメディアを操作している世界に住む多くの人々はニュースとされるものの怪しさをとっくに学んでいる」、と米国内の怠惰的内情を暴露している。そして現在インターネットがあらゆる分野で驚異的猛威を振るっているが、その原型モデルは米国防総省・高等研究計画局が導入したコンピュータ・ネットワークシステムで、それは1969年のことである。

2006-06-23

アテンション  ActiveX  javascript 

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いま旬の野辺に咲くカレンな野草を撮りました。花弁10ミリも満たない花ですが堂々たる存在感を持っています。
このところインターネット世界の毀誉褒貶を綴っている。その延長で、では「ネット世界の将来展望はどうなのか」という疑問が湧いてきた。世界の経済政治に大きな影響力を与えるようになったインターネット、10年後のネット世界はどのような変貌を遂げているのだろうか。
「アテンション」が次世代のキーワードになるとの予測がある。いまのところ風説の風上にも上がっていないアテンションだが、いずれ世間で流行言葉になるだろう。
「attention」(注目度)は、インターネット世界に広がる膨大な情報の中で何をチョイスするのか、という視点に立ったとき選択肢の要素として「注目」されることが重要であると、アメリカの研究家が指摘した。社会より注目される動向とは取り立てて新しいアクションではない。だが、これまで歴史上で経験したことのなかった世界規模の情報網インターネットがもたらす多様なコンテンツの中で、何が勝ち残るのかという設問に対して、それがアテンションであるとしている。「インターネットの時代では企業と個人は等価値になり権威の価値は相対的に低下している」、と述べるのは佐々木俊尚氏だが、まったく同様のことを梅田氏も述べている。それは既にアメリカの一部の人々によって権威というものが疑問視され始めているからだ。
我々一般民は、この権威によって、どれほど媚びへっらってきたことか。その権威の源泉力が一体どこから来ているのかということも知らずに。その問題の深層にはインターネットに棲む名も無き個人が権威社会とは無縁の場所で饒舌に喋り始めたことが、その既成概念を際立たせたことにある。権威支配社会で一般の民は、個人主張の場も無ければ機会も与えられていなかった。唯一それを抱かせたメディア世界は、商業主義世界のなかで権威者の一翼を担う「舎人」的存在で君主に対しては従順であった。したがって下層階級に棲む我々は一蓮托生にあるそれら権威者以下諸々既得権者の思惑に、知るべき情報も与えられていなかった。それがインターネットの新機軸出現によって逆転現象の様相を呈しはじめた。いまIT・ネットの革命期といわれるが、その逆転現象は始まったばかりである。
個人のホームページが世界規模で日々増え続けているが、そのキッカケは2001年9月11日アメリカ同時多発テロによって湧き起った政治に対する意見交換がwebサイトを加速させたという。インターネットはもともと法人向け企業を対象としたサービスが主流で10年前に始まった。まだブロードバンドも無かった時代で大手有名企業がいち早く導入し、そこにマイクロソフトのワード・エクセルが定番となりパソコンはマイクロソフトと同義語でさえあった。ある時代を形成した象徴的な社会現象で、それはかつてのIBMにも似る。時代が移りチープ革命の恩恵も手伝ってパソコンが個人で持てる時代となった。周辺機器と高性能OSが出回り企業業務パソコンから個人の趣味、高じてそれがブロ仕様にまで発展した。そしてあらゆる「表現能力」がパソコンによってなされいたる所に顔を出すようになる。梅田氏が指摘する玉石混交の「石」部分が怒涛の如く沸き出したのである。それが今である。それで判ったこと、これまで我々一般市民がなぞっていた権威とプロフェショナル世界は何であったのか、ということに気付き始めた。一方的に押し付けられる主観論、流行に乗じて売りつける音楽CDなど、よくよく考えてみれば、それらは偏った価値観で構成され自分個人の価値観とは相容れないものだった、ということに気付いたのである。それでも全体を支配するカタチは急激には変わらないもので近代社会の基盤である法人企業の力は依然として保たれている。そこでにわかに問題が浮上した。企業が死守してきた著作権をインターネットを通して大量に放出してしまう若いベンチャー企業に固陋たちが激怒した。それが自分達には明日がない、という保守的防御が働いた結果と、本人たちは気付いていないか、もしくは保守的意識の原点、「太陽が廻っているのだ」と頑なに主張するのである。
「かつてはテレビがアテンションの王者だった。人々はテレビだけにアテンションしていたのである。インターネットの登場でアテンションがテレビからネットへと少しずつ移りはじめた。このためテレビへのアテンションは相対的に減り始めている」と佐々木俊尚氏は、アテンションされるアーティストとコンテンツがインターネットへと移行していることを詳しく説明している。
それは全部「あちら側」の話で個人の「こちら側」とは無縁だが、ネット世界では「こちら側」個人の恨みつらみを公然にアピール出来ることが革命的なのだ。年間売り上げ5000億円のベンチャー企業とガス代の支払い5000円に苦労している個人では比較すべき基準が存在しない。
そしていま「こちら側」のパソコンが不調だ。前述したが、マイクロソフトの新バージョン「i・e7」をインストールして総てが狂ってしまった。その対策を講じ契約プロバイダー、パソコンメーカーにサポート連絡をしたが、いずれも解決策を得られなかった。早い話、マイクロソフトの尻拭いまで、当社は出来ません、ということなのだ。それは正論である。OSのインストールは自己責任内において、が原則で総てがその個人が責任を負う。だが、よくよく考えてみればサービスとは隔靴掻痒、その部分の痒いところに手が届く、という業務である筈で「他社の責任は負いかねます」と断っていたのでは、インターネット「総リンク」世界を人事と思っている、としか思えない。
また、それほど複雑に出来上がっているいるのがパソコンとプロバイダーとポータルサイトとIt産業で、さらに旧来メディアの既得権も絡んでいるから益々複雑怪奇な様相を呈している。
そんなことより自分のパソコンをはやく正常に戻したい。
(このブログをお読みのどなたか、恐縮ですが解決方法を教えて下さい。)

2006-06-22

富の分配アドセンス

年間売上5000億円、といっても一般庶民にとってはノー感じの数字で、一月5000円のガス代支払いに右往左往している生活者にとって別世界の話だ。Googleの年間売上5000億。
その98.8%がアドワーズとアドセンスの広告収入だと、本に書いてある。それを信じるしかないが縁のない話だから、それ以上の詮索も必要ない。

コンテンツターゲット広告と呼ばれるアドセンスは個人のホームページコンテンツに書かれた内容(具体的な名詞)をもとにアルゴリズム検索によって最も相応しい広告を掲載するというシステム。(このHPトップ広告を参照)
この話しを妻にしたところ、まったく理解出来なかった。と云うも私も最初は理解できなかった。
それで、いま私の「ブログ」に、この広告が載っている、クリックされる度に私の収入となる、と話すと「いくらになるの?」と聞くのでまだ手元に現金が届いていないから判らないが1万円程度と応えると、「良かったね」という返事。別に小遣いをせがむでもなく満足した様子。これには私自身も驚いた。
「インターネット世界で何が起こりうるか」という既成的事実の中で、モノを買うというアクションが一般的だ。当然にモノを買うための代償金を払う。アドセンスはその逆。インターネットを通じて個人の書いたブログ記事に広告を貼り、それを第三者が見てクリックした
回数によってサイト主に報奨金が支払われる、という前代未聞のシステムだ。それ故、そのシステムを理解するのに時間がかかり、そして妻はまったく理解できなかった。
たっぷり野菜のサラダうどん580円和風、いま旬夏スタイル大きいサイズ890円、天然酵母パンとケーキの店半額セール山の幸ビザ130円、とチラシに載った広告を慎重に吟味している妻にとっと、デジタルなネット世界は苦手のようだ。100円単位の買い物に一喜一憂する生活者だが、法外な5000億円を集めるには100円の品物を50億台のPC で注文を取ればいい。日本には推定で7000万台のパソコンが稼動しているというから世界中のPCを考慮したら荒唐無稽の計算ではない。
パソコンは極めて個人的な道具で、私が家の中でパソコンをやっていても家族は誰も覗かない。同じパソコンを娘が使ってもいても私も覗かない。そんな理由で一台のパソコンは二人の人間を相手にして、極めてプライベートに付き合ってくれるペット機械のような存在だ。妻は妻で、自分のパソコンを持っているが、もっぱら仕事のために職場で使っている。当然インターネットにアクセスしていない。だからアドセンスの話しを全然理解出来ない。
梅田氏の指摘する「ネットに住む人」、その正反対「使ったことの無い人」の格差は広がるばかりで二つの並行する線は磁力界SN極のように反発し接点がない。そんな現実の実態の中で私の起こしたアクション「アドセンス」に対して妻が抱いた私への応対は、驚き、戸惑い、羨望、敬服等々、複雑な感情が入り混じった「賛辞」ではないのか、と私は思った。単なる一家庭の他愛もない生活断片だが、その小さな生活を変えることこそが保守意識の改革、強いてはコペルニクス的意識改革の端緒である、とこの件で学びとったのである。
Posted by Picasa photo:幕張新都心のオブジュエ

2006-06-20

光電子倍増管?

Posted by Picasa スーパーかみおかんで(岐阜県神岡山)
の地下に設置されたチェレンコフ光観測の
光電子倍増管13031本でニュートリノを観測

と、良く似たこれは劇場の天井照明でした

2006-06-17

国王碑文アッシリア文字「人面有翼牡牛像」メソポタミア

メソポタミア紀元前721年~705年、巨大建造物
サルゴン2世王室入り口の守護神「ラマッス」人面牡牛
現代の都市国家巨大建造物「モノレール」に匹敵する
大英博物館・NHKメソポタミア文明の誕生 より
Posted by Picasa

2006-06-16

モノレール風景 Posted by Picasa

2006-06-09

チープ革命最前線


太陽系宇宙の中心ガイア、その太陽内部では水素と水素が核融合反応してヘリウム「He」を製造する。工場があるわけではない。大宇宙のダイナミズムによって宇宙法則に従い運行し、ごく自然にそして圧倒的パワーを放つ。何故そうなっているか、何処からそんな力が湧いて出るのか誰も知らない。
IT世界がいま急激に上昇している様子は、その核融合メカニズムに等しい。高性能パソコンが全世界に拡散し、そこから新たなる新物質が誕生して、更に加速度的に、そして膨大に膨れ上がる。これはまさにヘリウムそのものだ。
インターネットのバーチャル世界がリアル社会を動かしてしまう、その実体験を肌で感じ驚愕する。そんなことを可能にしたのがラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、そして天才ジム・リースたちが率いるGoogleと改めて認識した。
私の、このブログサイトトップに「このサイトに広告を掲載」という案内が表示してある。その内容とは私が書いた記事に合わせた内容の企業(小中規模)の広告が載せられる。
ある日、ギリシア神話を題材にしてミノタウロス誕生の過程を記述し中に「獣姦」という件があった。グーグル検索ロボットは、それを目敏く察知して浮気不倫調査の探偵事務所の広告を貼った。「世の中には様々な仕事があるものだ」といたく感心し又、こうしたケースで当該企業が世に知られること、そのことが非常に有意義なことと改めて感心したのである。
そしてもう一つの実例。同じ広告欄にWACOMというPC周辺機器を扱う会社の広告が載せられた。パソコン内でイラストを描くのに使用するペンタブレット商品の案内だ。私のページではデジカメ写真を多く用いているが、その他自作イラストも掲載している。パソコンマウスでイラストを描くには限界があり、そのタブレットが欲しいと思っていた矢先のことだった。しかし自分のページの広告をクリックするのは契約で禁じられているため、ID検索して当社のHpを閲覧したところ自分のイメージしていた機材で、ペンで描くイラストの紹介がされている。その場で注文し2日待ってWACOMのintuosペンタブレットが届いた。全てがインターネット上で交わした商取引である。それも私個人のプログに載せられていた広告によってである。更に驚くべきことは「ペンタブレット」の驚異的性能である。パソコンのUSB接続で使用するペンタブレットは、まさにデジタル技術の申し子のような存在だった。それらの全部がインターネットを介して「外の世界で生産」されたイラストをデジタルで描く超精密な道具を手に入れた。リアル社会の産物をバーチャルなデジタル世界から手に入れたのだった。瓢箪からコマとは、そのことか。この様を私は水素の核融合に喩えたのだ。梅田氏が「web進化論」で指摘する「チープ革命」を実証するかのような出来事だった。そうした恩恵をこうむって玉石混交の中の「石」の存在である我々は個人の表現能力を数十倍もアップさせた。それは音楽シーンでもまったく同じことが云えて、電子ピアノで数百種類の音ソースを抽出し伴奏曲を作る。そこにボーカロイドソフトのデジタルボーカルを載せて歌を唄わせる。それをたった一人で構成できる。かつて物置一部屋分のコンピュータで作っていたプロ仕様のデジタル音源が10万円足らずのパソコンで同等の能力を発揮する。そのオリジナル曲を音楽サイトに投稿し審査の末、ネット上に公開され全国ネット場合によっては世界に配信される。
まったくの個人が、その趣味に即したジャンルでPC内機能を駆使し思いのままに感性表現できる。その領域においてプロとアマの差は拮抗しつつある。ただし、人の手によってプログラムされたCDソフトはいくらでも量産可能で、それを使うことによって総てが均一化するというジレンマが付きまとう。
チープ革命に包括される「ムーアの法則」、1965年ゴードン・ムーアが提唱した。パソコンに組み込まれているマイクロプロセッサー・インテルの創業者がゴードン・ムーアである。 下落するハードウェア価格と周辺ソフトとITに関係する諸々を含め低価格化が進むと予測した「ムーアの法則」。それが未だに有効であると「web進化論」で梅田氏は説く。
世界のIT産業が一定の飽和期を迎えた今日、彗星のごとく現れたベンチャー企業「Google」が将来の革命児になり得るか、という問いは私の実体験から判断しても既にその兆候が散見する。皮肉なことに、このパソコンを動かしているOSはマイクロソフトによってである。   
photo: SWEEPERCAR ENGINE
                             WACOM http://tablet.wacom.co.jp             

2006-06-05

女官の冠 ウル王墓

NHK大英博物館 メソポタミア文明の誕生より Posted by Picasa

2006-06-04

Mesopotamia と Silk Road

写真は日本の古典舞踊音楽、神楽舞「悠久の舞」の装束である(モデル巫女、千葉県香取神宮・堤さん)。
中国伝来の雅楽とは出生が異なり、古代より日本独自の音楽舞踊とされる。
古代朝廷「内侍所の御神楽」として宮廷内では、なくてはならない音楽として儀式に奏されていた。奈良時代より以前から古代中国の隋・唐より伝来された雅楽は、古文書によって史実が明らかにされているが、こと神楽に関してはその文献が見当たらない。もともと神楽は神話をモチーフにして出来上がった舞踊で宮廷内の御神楽と土着の里神楽に分類される。卑弥呼(推定3世紀)の時代まで遡れば明らかにされようが、その時代に関する文献は日本には無く古代中国の魏の史書「魏志倭人伝」に頼る他にない。
モデル写真に写る頭部の飾りは「天冠」といい、儀礼的正装の施しをするときに必要不可欠な飾り物である。その容姿からして古代の王を思わせる。
人間の頭部をきらびやかに飾る様式は古代より世界共通で、この写真にある天冠飾りが特別なオリジナルということではない。では、なにゆえ古代日本の神楽舞に天冠飾りがほどこされたのか、という理由は何一つ判っていない。
そもそも宮廷内で行われる内侍所の神楽が何故必要なのか、それが1300年間に渡り継承されてきた理由は何故か、という責めてはならない質問に対して答があるはずもない。伝統だから、文化だから、古式にのっとった儀式であるからと諸々の理由は付くが、それ以上の詮索をすることが無駄である。そのムダとは1300年間の歴史を一定時間の時代で云々することが暴挙である、と思われているからであり、また理路整然とその説明を出来る人間が誰もいないということでもある。
そうした曖昧模糊とした歴史の深さを一気に説明してくれるのが絵であり画像である。古代日本の文化が何処に依拠しているのか、という回りくどい文を書くよりも、古代メソポタミアの天冠(宝飾をつけた女性胸像、初期シュメール時代紀元前2600年頃)を見せた方がよっぽど説得力がある。 それがウリ二つとは云わないが明らかに似ている、と誰が見ても思う。前2600年と現代2006年で概算でも4600年という時間の隔たりがある。それが何故似ているのか、という単純な疑問を解くには、やはり過去の遺物と現代のモノを比較するのが一番早い。
前3000年にシュメール都市国家が成立したメソポタミアは古代社会特有の君主制で王を頂点として社会が形成されていた。そのスタイルも世界共通で
王が冥途へと旅立つとき、仕えていた人間も共に殉死して埋葬された。「宝飾品をつけた女性の胸像」がそれで、黄金と宝石類で飾られた冠は女官のものである、と説明されている。
その二つを結ぶものは何か。時間と空間を一気に短縮して同時間に5000年前の遺物を現代の巫女舞の天冠と並べると何が判るのか、という設問に対しての応えは一つ、それがシルクロードである。いまのところそれしか説明のしようがない。
参考文献 NHK大英博物館1メソポタミア・文明の誕生

2006-06-03

エーゲ海沿岸の歴史

                                     
当サイト広告に「ダ・ヴィンチ・コード」関連の広告が多く載っていたのでダ・ヴィンチの話題ではなく「隠されたナゾ」の部分を少しばかり探ってみたと思った。「2000年間隠されてきた人類の歴史を揺るがす謎とは」、また大層な見出しだ。舞台がパリのルーブル美術館であることも見逃せない歴史の謎解きをするのに好都合である。
その館内に並んだ巨大レリーフ彫刻は紀元前に創られたものばかりだ。とくに多いのがメソポタミア(現イラク)遺跡類。
映画では秘密結社の紋章の鍵…、が思わせぶりだが紀元前の宗教観を詳細に調べると、限定された部族に発生した宗教(神)には今のロゴのようなものがふんだんに使われていた。古代社会の話だから部族間の交流また闘いであって、いまで云う秘密結社に当たるかも知れない。「あいつら密かに悪巧み」をしていると、部族同士がいがみ合えば、それが戦になる。古代歴史を大雑把に捉えれば殺戮史でありそこに崇拝される宗教的神の存在がある。
エーゲ海に浮かぶ小さな島「クレタ島」には、小さいながらも古代歴史のエッセンスが一杯詰っている。とくにギリシアの影響が色濃く残り、また神話そして伝説化した逸話も豊富に語り継がれていた。
クレタ島は地理的に地中海沿岸欧州、北アフリカ、西アジアに歩いて届くほどの距離である。勿論島であるから舟を利用するが、その舟もまた古代歴史を彩っていた。小アジア西の終着にオスマン帝国があるが、アジア文明を吸収するにも好都合の地の利である。
牛頭人間ミノタウロス伝説、当時クレタ島信仰として牡牛信仰があった。地中海世界の覇者となった隣接するギリシアに、そのミノタウロス神話が誕生する。海神ポセイドンから贈られた牡牛と王ミノスの妻パシパエが獣姦によって誕生したのがミノスの牡牛「ミノタウロス」だ。頭が牛、体がヒトの「神」はその後も多くの影響を与え、各地に伝説の神として奉られるようになる。
古代ペルシア紀元前3世紀頃、ミトラス神の神殿には牡牛を殺すミトラス神像が崇拝対象となっていた。そして現代に引き継がれたキリスト神話には守護者ミトラスと類似する信仰形態が多数見られる。冬至の日に近いミトラスの誕生日とイエスの誕生日は同じである。登場する羊飼いの使い方も似て、ミトラスの誕生を知っていたのが羊飼い、そしてミトラスが天に戻る前、「最後の晩餐」において羊飼いはその場にいた。キリスト復活祭イースターは春分の日のミトラスの昇天日でもある。カトリックの総本山バチカンの丘はミトラスを祭る洞窟神殿があった場所である。当時の世界を制覇していたローマ帝国時代の遺産とも云うべき神話・伝説がギリシア神話とも相まって遺り、それはエーゲ海沿岸の歴史、また西欧歴史でもあ。クレタ島に今でも存在するクノッソス遺跡がすべてを語っている。
パリ、ルーブル美術館、イギリス大英博物館に収蔵展示されている数万点の遺跡発掘品にはメソポタミア、ペルシア、アフガニスタンなど世界文明発祥の痕跡をのこす遺品が多い。北アジア圏内のアフガニスタン遺跡には日本の文化にも大きな影響を与えた品も多いが同時にギリシア文明の片鱗もみせている。特に私の心を引きつけたのは「ゼウス神像の左足」で石に刻み込まれた巨大な左足に歴史の総てが凝縮していると咄嗟に思った。それほど説得力をもっている。それらの発掘品がルーブル美術館や大英博物館に収蔵されていること自体が「ナゾ」である。それはスペイン人がインカ文明を抹殺したことと無関係ではないような気がする。

参考文献 ペルシア神話 ジョン・R・ヒネルズ 青土社  森を守る文明・支配する文明 安田喜憲 PHP新書 キリスト教封印の世界史 ヘレン・エラーブ 徳間書店 

2006-06-01

ブリンとペイジの物語

Google」を語るのにブリンとペイジを抜きに語ることはできない。
1999年から2000年にかけて、友人宅のガレージを間借りして「検索エンジンを開発」していたスタンフォード大学の学生、それがブリンとペイジだった。American・Successstoryを絵に描いたような逸話話しである。その後の経緯については「web進化論」に詳しいが、ここでは神の領域について語ってみたい。
web進化論で紹介する「ネットの三大法則」というのがあって、トップに「神の視点からの世界理解」という項目がある。別に宗教的な解釈ではなく、大きな視点をもって地球規模の人間世界を観察する、という意味らしい。それは広義解釈と理解するが、とても小さな領域に限定して神たる領域を観察すると、そこに人間世界また生物世界の宇宙が存在する。野生動物の世界で、親から産み落とされた子が大人へと生育するまでには、とてつもない試練が待ち受ける。それには幸運と自力の生命力が不可欠で運良く勝ち残る確率は1%にも満たない。そこには生命体個人の意思に反して千変万化(多様に変化)な試練が待ち受け、固体の存在価値痕跡を遺すには厳しい現実がある。そうして勝ち残ったのが「Google」、だと私は思う。かりに「神」がいたとして、その力を頂いたのがブリンとペイジだ。
物理学の世界では「用意したものに幸運は宿る」という定型句がある。その場、取り繕いの浅知恵ではなく信念に基づいた研究をコツコツと愚直に進めることこそが神の領域に向かうという比喩である。そんな意味も含めてブリンとペイジには神がニッコリ微笑んだのだろう。
そこまでは何となく理解したが、その先にはもっと大きな力が作用しているようなうな気がしてならない。グーグルのしているコンセプトは余りに巨大で、それは国家的プロジェクトに匹敵する。世界政府を標榜している姿勢もその一環だろう。
かのアインシュタインが相対性理論を提示したのが1905年、当時 26歳。「哲学原理」を著したデカルトは1644年、当時48歳である。因みにブリンとペイジは1973年生まれ。