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いま旬の野辺に咲くカレンな野草を撮りました。花弁10ミリも満たない花ですが堂々たる存在感を持っています。
このところインターネット世界の毀誉褒貶を綴っている。その延長で、では「ネット世界の将来展望はどうなのか」という疑問が湧いてきた。世界の経済政治に大きな影響力を与えるようになったインターネット、10年後のネット世界はどのような変貌を遂げているのだろうか。
「アテンション」が次世代のキーワードになるとの予測がある。いまのところ風説の風上にも上がっていないアテンションだが、いずれ世間で流行言葉になるだろう。
「attention」(注目度)は、インターネット世界に広がる膨大な情報の中で何をチョイスするのか、という視点に立ったとき選択肢の要素として「注目」されることが重要であると、アメリカの研究家が指摘した。社会より注目される動向とは取り立てて新しいアクションではない。だが、これまで歴史上で経験したことのなかった世界規模の情報網インターネットがもたらす多様なコンテンツの中で、何が勝ち残るのかという設問に対して、それがアテンションであるとしている。「インターネットの時代では企業と個人は等価値になり権威の価値は相対的に低下している」、と述べるのは佐々木俊尚氏だが、まったく同様のことを梅田氏も述べている。それは既にアメリカの一部の人々によって権威というものが疑問視され始めているからだ。
我々一般民は、この権威によって、どれほど媚びへっらってきたことか。その権威の源泉力が一体どこから来ているのかということも知らずに。その問題の深層にはインターネットに棲む名も無き個人が権威社会とは無縁の場所で饒舌に喋り始めたことが、その既成概念を際立たせたことにある。権威支配社会で一般の民は、個人主張の場も無ければ機会も与えられていなかった。唯一それを抱かせたメディア世界は、商業主義世界のなかで権威者の一翼を担う「舎人」的存在で君主に対しては従順であった。したがって下層階級に棲む我々は一蓮托生にあるそれら権威者以下諸々既得権者の思惑に、知るべき情報も与えられていなかった。それがインターネットの新機軸出現によって逆転現象の様相を呈しはじめた。いまIT・ネットの革命期といわれるが、その逆転現象は始まったばかりである。
個人のホームページが世界規模で日々増え続けているが、そのキッカケは2001年9月11日アメリカ同時多発テロによって湧き起った政治に対する意見交換がwebサイトを加速させたという。インターネットはもともと法人向け企業を対象としたサービスが主流で10年前に始まった。まだブロードバンドも無かった時代で大手有名企業がいち早く導入し、そこにマイクロソフトのワード・エクセルが定番となりパソコンはマイクロソフトと同義語でさえあった。ある時代を形成した象徴的な社会現象で、それはかつてのIBMにも似る。時代が移りチープ革命の恩恵も手伝ってパソコンが個人で持てる時代となった。周辺機器と高性能OSが出回り企業業務パソコンから個人の趣味、高じてそれがブロ仕様にまで発展した。そしてあらゆる「表現能力」がパソコンによってなされいたる所に顔を出すようになる。梅田氏が指摘する玉石混交の「石」部分が怒涛の如く沸き出したのである。それが今である。それで判ったこと、これまで我々一般市民がなぞっていた権威とプロフェショナル世界は何であったのか、ということに気付き始めた。一方的に押し付けられる主観論、流行に乗じて売りつける音楽CDなど、よくよく考えてみれば、それらは偏った価値観で構成され自分個人の価値観とは相容れないものだった、ということに気付いたのである。それでも全体を支配するカタチは急激には変わらないもので近代社会の基盤である法人企業の力は依然として保たれている。そこでにわかに問題が浮上した。企業が死守してきた著作権をインターネットを通して大量に放出してしまう若いベンチャー企業に固陋たちが激怒した。それが自分達には明日がない、という保守的防御が働いた結果と、本人たちは気付いていないか、もしくは保守的意識の原点、「太陽が廻っているのだ」と頑なに主張するのである。
「かつてはテレビがアテンションの王者だった。人々はテレビだけにアテンションしていたのである。インターネットの登場でアテンションがテレビからネットへと少しずつ移りはじめた。このためテレビへのアテンションは相対的に減り始めている」と佐々木俊尚氏は、アテンションされるアーティストとコンテンツがインターネットへと移行していることを詳しく説明している。
それは全部「あちら側」の話で個人の「こちら側」とは無縁だが、ネット世界では「こちら側」個人の恨みつらみを公然にアピール出来ることが革命的なのだ。年間売り上げ5000億円のベンチャー企業とガス代の支払い5000円に苦労している個人では比較すべき基準が存在しない。
そしていま「こちら側」のパソコンが不調だ。前述したが、マイクロソフトの新バージョン「i・e7」をインストールして総てが狂ってしまった。その対策を講じ契約プロバイダー、パソコンメーカーにサポート連絡をしたが、いずれも解決策を得られなかった。早い話、マイクロソフトの尻拭いまで、当社は出来ません、ということなのだ。それは正論である。OSのインストールは自己責任内において、が原則で総てがその個人が責任を負う。だが、よくよく考えてみればサービスとは隔靴掻痒、その部分の痒いところに手が届く、という業務である筈で「他社の責任は負いかねます」と断っていたのでは、インターネット「総リンク」世界を人事と思っている、としか思えない。
また、それほど複雑に出来上がっているいるのがパソコンとプロバイダーとポータルサイトとIt産業で、さらに旧来メディアの既得権も絡んでいるから益々複雑怪奇な様相を呈している。
そんなことより自分のパソコンをはやく正常に戻したい。
(このブログをお読みのどなたか、恐縮ですが解決方法を教えて下さい。)
2006-06-23
2006-06-22
富の分配アドセンス
年間売上5000億円、といっても一般庶民にとってはノー感じの数字で、一月5000円のガス代支払いに右往左往している生活者にとって別世界の話だ。Googleの年間売上5000億。
その98.8%がアドワーズとアドセンスの広告収入だと、本に書いてある。それを信じるしかないが縁のない話だから、それ以上の詮索も必要ない。
コンテンツターゲット広告と呼ばれるアドセンスは個人のホームページコンテンツに書かれた内容(具体的な名詞)をもとにアルゴリズム検索によって最も相応しい広告を掲載するというシステム。(このHPトップ広告を参照)
この話しを妻にしたところ、まったく理解出来なかった。と云うも私も最初は理解できなかった。
それで、いま私の「ブログ」に、この広告が載っている、クリックされる度に私の収入となる、と話すと「いくらになるの?」と聞くのでまだ手元に現金が届いていないから判らないが1万円程度と応えると、「良かったね」という返事。別に小遣いをせがむでもなく満足した様子。これには私自身も驚いた。
「インターネット世界で何が起こりうるか」という既成的事実の中で、モノを買うというアクションが一般的だ。当然にモノを買うための代償金を払う。アドセンスはその逆。インターネットを通じて個人の書いたブログ記事に広告を貼り、それを第三者が見てクリックした回数によってサイト主に報奨金が支払われる、という前代未聞のシステムだ。それ故、そのシステムを理解するのに時間がかかり、そして妻はまったく理解できなかった。
たっぷり野菜のサラダうどん580円和風、いま旬夏スタイル大きいサイズ890円、天然酵母パンとケーキの店半額セール山の幸ビザ130円、とチラシに載った広告を慎重に吟味している妻にとっと、デジタルなネット世界は苦手のようだ。100円単位の買い物に一喜一憂する生活者だが、法外な5000億円を集めるには100円の品物を50億台のPC で注文を取ればいい。日本には推定で7000万台のパソコンが稼動しているというから世界中のPCを考慮したら荒唐無稽の計算ではない。
パソコンは極めて個人的な道具で、私が家の中でパソコンをやっていても家族は誰も覗かない。同じパソコンを娘が使ってもいても私も覗かない。そんな理由で一台のパソコンは二人の人間を相手にして、極めてプライベートに付き合ってくれるペット機械のような存在だ。妻は妻で、自分のパソコンを持っているが、もっぱら仕事のために職場で使っている。当然インターネットにアクセスしていない。だからアドセンスの話しを全然理解出来ない。
梅田氏の指摘する「ネットに住む人」、その正反対「使ったことの無い人」の格差は広がるばかりで二つの並行する線は磁力界SN極のように反発し接点がない。そんな現実の実態の中で私の起こしたアクション「アドセンス」に対して妻が抱いた私への応対は、驚き、戸惑い、羨望、敬服等々、複雑な感情が入り混じった「賛辞」ではないのか、と私は思った。単なる一家庭の他愛もない生活断片だが、その小さな生活を変えることこそが保守意識の改革、強いてはコペルニクス的意識改革の端緒である、とこの件で学びとったのである。
photo:幕張新都心のオブジュエ
その98.8%がアドワーズとアドセンスの広告収入だと、本に書いてある。それを信じるしかないが縁のない話だから、それ以上の詮索も必要ない。
コンテンツターゲット広告と呼ばれるアドセンスは個人のホームページコンテンツに書かれた内容(具体的な名詞)をもとにアルゴリズム検索によって最も相応しい広告を掲載するというシステム。(このHPトップ広告を参照)
この話しを妻にしたところ、まったく理解出来なかった。と云うも私も最初は理解できなかった。
それで、いま私の「ブログ」に、この広告が載っている、クリックされる度に私の収入となる、と話すと「いくらになるの?」と聞くのでまだ手元に現金が届いていないから判らないが1万円程度と応えると、「良かったね」という返事。別に小遣いをせがむでもなく満足した様子。これには私自身も驚いた。
「インターネット世界で何が起こりうるか」という既成的事実の中で、モノを買うというアクションが一般的だ。当然にモノを買うための代償金を払う。アドセンスはその逆。インターネットを通じて個人の書いたブログ記事に広告を貼り、それを第三者が見てクリックした回数によってサイト主に報奨金が支払われる、という前代未聞のシステムだ。それ故、そのシステムを理解するのに時間がかかり、そして妻はまったく理解できなかった。
たっぷり野菜のサラダうどん580円和風、いま旬夏スタイル大きいサイズ890円、天然酵母パンとケーキの店半額セール山の幸ビザ130円、とチラシに載った広告を慎重に吟味している妻にとっと、デジタルなネット世界は苦手のようだ。100円単位の買い物に一喜一憂する生活者だが、法外な5000億円を集めるには100円の品物を50億台のPC で注文を取ればいい。日本には推定で7000万台のパソコンが稼動しているというから世界中のPCを考慮したら荒唐無稽の計算ではない。
パソコンは極めて個人的な道具で、私が家の中でパソコンをやっていても家族は誰も覗かない。同じパソコンを娘が使ってもいても私も覗かない。そんな理由で一台のパソコンは二人の人間を相手にして、極めてプライベートに付き合ってくれるペット機械のような存在だ。妻は妻で、自分のパソコンを持っているが、もっぱら仕事のために職場で使っている。当然インターネットにアクセスしていない。だからアドセンスの話しを全然理解出来ない。
梅田氏の指摘する「ネットに住む人」、その正反対「使ったことの無い人」の格差は広がるばかりで二つの並行する線は磁力界SN極のように反発し接点がない。そんな現実の実態の中で私の起こしたアクション「アドセンス」に対して妻が抱いた私への応対は、驚き、戸惑い、羨望、敬服等々、複雑な感情が入り混じった「賛辞」ではないのか、と私は思った。単なる一家庭の他愛もない生活断片だが、その小さな生活を変えることこそが保守意識の改革、強いてはコペルニクス的意識改革の端緒である、とこの件で学びとったのである。
photo:幕張新都心のオブジュエ
2006-06-20
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