2006-07-22

30年前の世相比較

Posted by Picasa photo:Desert

昭和51年(1976)2月4日、アメリカ上院で「ロッキード事件」が暴露された。
アメリカで騒いでるから、こちらも動くか、当時そんな空気が漂っていた。月刊誌文芸春秋で田中金脈を追ったドキュメントを書いていたのが作家立花隆氏である。それが現役首相逮捕に追い込んだ一要因でもあったようだ。

米ロッキード社が全日空機種選定に便宜をはかり日本の商社が仲介役で、その事件は起きた。その当時のニュースとしては、その深層まで図り知ることはなかったが、それから30年経過して、英国政府の機密文書より世界を舞台にしたカラクリが判明した。ロッキードのトライスターはロールスロイス社のジェットエンジンを搭載していた、それが理由だ。
1972年9月、当時の英国首相ヒースと田中との首脳会談で、ヒースよりトライスター売り込みセールスを直接受けた、ことが機密文書で明らかになった。
その際、成立すれば日本は英国米国二人の友人に手助けできる、と念をおされたという。また、その年代の日本国内問題として日英間の貿易不均衡が懸念され、工業製品・化学繊維対英輸出が急増し1970年を境に翌年1971年には英国対日貿易収支がマイナスに転じた年で、その後1972年の首脳会談である。その庇護すべきロールスロイス社は1971年2月に経営破たんした。
ロッキード社の強引セールスは世界中の主要人物に及び、オランダ、西ドイツ、イタリア、コロンビアなど10カ国を巻き込んで一大スキャンダルへと発展した。(7月20日付 読売新聞記事抜粋)
ときが経過して30年後のいまグローバルなインターネット時代。マイクロソフト社に追加制裁を突きつけたのは欧州連合EUである。市場で独占的な地位を持つ企業の独禁法違反に対し厳格に対応する姿勢を貫いたものだ。欧州の消費者や企業に不利益が生じる点で容認できない、というのがその理由である。(7月13日付 読売新聞記事抜粋)

2006-07-20

リアルな現実社会

Posted by Picasa
今朝、新聞を手にとってみるとトップに昔の事件を
扱った記事が載っていた。(読売)  
ロッキード事件30年とあり、当時の若き日の首相が写真掲載されていた。30年前日本中の目が注がれていたロッキード事件は、現役首相逮捕という結末に誰もが青天の霹靂と思ったに違いない。それまで政治の核心部分に法の手は延びない、という一種退廃的な世相観が蔓延していたからである。
今年、経済界を揺るがす事件がいくつも発生し逮捕者も出している。その事件に政治家は関与していない。30年前のソレとは違って隔世の観がある。記事内容も同様のコメントを出していた。
ロ事件は今では完全に風化し、リアルに、そのことすら知らない世代がItベンチャーの社長に納まる時代である。高度成長経済を掲げた昔の日本が懐かしくもあり、誰もが一生懸命に働いた時代として今の日本が成り立っている。
その30年前の事件を扱った今の新聞の狙いは何か。インターネットを語るとき必ずといっていいほど既存メディア新聞・テレビの在り方が問われる。とくにグーグルの展開するニュース配信が既存メディアとせめぎ合い、それが世界中で議論されている。ニュース内容本体は今も昔も変わらないが、それを誰が、どんな形で社会に提供するかという方法論がいま問われている。このブログでも書いたが、新聞社の作った記事に著作権があるとしてITベンチャーが裁判で敗訴し既存メディア健在という立場をアピールした。それからさほど時間も経過していない今日、明らかな変化が生じていることを肌で感じた。冒頭の当該新聞社がグーグルのアドセンス広告、それも私のこのサイトに載っていた。ネットにニュースを配信することを是としない姿勢から一転、積極策に転じた。そして、いま手にしているアナログ紙面の新聞の「ローキード事件30年」は3ベージ分割で事件の詳細を報道している。その内容はネット上では読みきれない、新聞ならではのレイアウトである。それはインターネットのニュース配信とは明らかに異なる。記事の読み易さ、また世間がナニを知りたいか、そのことを熟慮すれば自ずと新聞紙面は変化するのである。

2006-07-19

パソコンは男かオンナか

Posted by Picasa photo:アンドン

一日の仕事から解放され帰宅すると日課のパソコンに席を構える。
遅れて帰ってきた妻は夕食の支度を整えテレビのニュースを見ながら夕食をしていると妻が云う。「パソコンと結婚すればー」と。
ではパソコンは男であるか女であるか。
ソクラテスの哲学に遠く及ばないが、これは重要な問題である。時として女であるし場合によっては男でもある。他愛もない戯言もまた人生にとって必要である。
私のパソコンが不調のまま2ヶ月を経過した。その間、手をこまねいていたという事ではないが関係筋のサポートも空しく時が経過した。事の始まりは前日記で説明してある通りexplorer新バージョン7のインストールからである。
使用しているこのパソコンメーカー「N」社のサポートを再三受けたが、解決に至らなかった。そもそもマイクロソフトのバージョンソフト入力によって引き起こされたトラブルは全責任を自己で賄う、というのが主旨であって所在を転化できないことは充分承知している。が、プロバイダー、また主要ポータルから送られてくる更新バージョンをインストールするのはユーザーとして極当然の行為と思うが、その結果についてはサポートしません、という姿勢はフェアーでない、と感じるのは間違っているのか。同様の処置がマイクロソフトから通達され期限付き旧バージョンサポート打ち切りが案内されユーザーの混乱が起き社会問題となっている。
私個人の問題としては、不調な今のパソコンをなんとか回復したいと「N」社に何回と無く電話サポートしたが、有効な解決策を見出せないまま今に至っている。それで感じたのは、問題動機がマイクロソフトであり、当方にとっては関与するケースではない、という感じが読み取れた。もちろんそれは当然の意思表示だが、被害を被っているユーザーとしてそれは随分醒めた対応だな、とおもわざえるを得ない。サイト提供社はサービス業である以上ユーザーの要求に応える必要がある。
インターネットを操り、そこから利益を得ているポータルとネットメディア、そしてプロバイダー各社は一方的にコンテンツを提供して、その結果の善し悪しについては自己責任の範囲で責任を負う、という逃げ口上をしているのであれば、旧来のメディア世界と何ら変わりない。お互いが同等の発信手段を持ちながら、「少数意見は取るに足らぬ」ではインターネット特有の相互コンタクトの利便を共有している、という独自性がまったくみられない。
よりよき明日のインターネットを開発するという表題を掲げるのであれば、関係各ネットサイトは肝に銘じて対応を検討すべし、である。
 Posted by Picasa

2006-07-17

村上隆・語録に触発され

Posted by Picasa photo:shovel

前項ブログで紹介した村上隆の、「作品の価値とは実体のない虚構から生まれるものなのです」、は私にとって頂門の一針だった。
それはなぜか、真実だからである。激戦区アメリカアートシーンで認められた人間の言葉ゆえ、あらゆる仮面装飾を取り払った後の言葉である。

5年間の成長率40万%という桁違いの恐竜スーパーサウルス並みのベンチャー企業「Google」と、それは重なった。
グーグルは博士号候補による論文アルゴリズムを携えて発足したアメリカの若手ベンチャー企業である(アルゴリズムプログラムシステムのデジタル構成だが端末に現れた裾野ではアナログ的コンテンツを売るデジタル企業)。その点を多方面から比較してインターネットデジタル社会とは、どう云うことを意味するのか。
旧来の権威・プロフェッショナルという恐竜の頭部分に相当する寡占的支配の常識的概念、というより人間世界で約2000年間に培われた自然科学的意識から簡単に脱却できない実像世界観との葛藤ジレンマが表出している、とでも表現すべきか。そしてインターネットにおける不特定多数を狙った玉石混交の中の石の部分、その、にわかに宝になり得るというデジタルコンテンツをネットを介して分け与えたことによって新たに注目され始めた。その方法論がいまだに確立していない状況でサイトコンテンツ提供者ポータル他、ネットメディア提供者は自身の内部においてはデジタルテクノロジーを駆使してサービスを提供するが、出された媒体は人間感覚に訴えるアナログ世界である。
ネット世界が革命を起こす、とはそのメディア提供者が声を高らかに叫ぶことではなく、ロングテールの玉石混交「石」であるセクションが宝になった時であり、圧倒的多数が怒涛の如く世界を覆いつくしたときに始めて革命的といえるのではないか。そして、私とアナタはデジタルテクノロジーの道具である楽器演奏、イラスト、映像等を使って個性感情を表現する。その内容がどうであれ、良い悪いと判断するのは権威でもなくプロでもなくサイト提供者でもなく私とアナタである。
そんなことを村上隆語録「実態の無い虚構である」と私に教えてくれたのである。
プロの歌手が一人で年間1億円稼ぐ金を、1000万人の素人歌手が一人10円稼ぐこと、それがネット世界である。当然その10円で生活は出来ない。生活費は従来の企業で働いて稼ぎ出し余暇を使ってパソコン発信する。それがきわめて現実的であるし不特定多数億単位を取り込むことを前提としたネット社会では単純な計算式である。その1000万人の磨けば宝になるであろう私やアナタにサイト提供者は何が出来るか。広告収入が企業生命の母体であるなら、それを支えているのが私とアナタたちである。その個人に「サァ、宝になって下さい」とステージを用意しデジタルソースを提供して1000万色のカラーを創出することが出来るのがサイト提供者である。個人の表現力を引き出させる優れたソフトを提供することによって、そのサイトのユーザー獲得にも繋がるであろうし又、広告挿入によって購買力アップも期待できる。なにしろネット社会は数の論理であり、もっとも得意とするジャンルなのである。
確率ゼロに近い1億円宝くじと、確率50%の10000円宝くじの、どちらを選ぶか、それは主要サイト提供者も「私とアナタ」もまったく同じ線上に立っている。

2006-07-16

芸術を起業する とはナニか

Posted by Picasa photo:神楽面 龍神

日本の現代アート旗手である村上隆の破天荒な表現は日本のみならず、いまや世界が注目している、といった方が適切か。
その本人は、絵の表現に限定することなく多方面で才能を発揮する。
数年前、NHKで彼の製作現場を取材した番組が放映された。アートシーンというより、彼のもとに集まる若手アート志願者の修行道場といった内容である。超一流アーティスト村上隆が、アート修行若者に向ける辛辣な言葉に耐えられず挫折する様子が描かれていた。一流プロを志すものの基本を教えているが、それが伝わらないイライラをよく表現していた。彼はすべてにおいて饒舌である。それを語るように自身による本を出版した。「芸術起業論」(村上隆著 幻冬舎)というタイトルからして特異であり、えっ、そんなのアリ…、と思わせた。作品がオークション1億円で落札、で判るように彼のアートは、かつてのアメリカ現代アート旗手アンディー・ウォフォールと類似するように思う。「これが絵です」という既成概念を外れ、人々をアッと驚かせる。マンガに描かれたキャラクターを立体フィギュアにして日本の誇るマンガを世界にアピールした。彼の舞台はほとんどアメリカだが、「会社の成績が悪かろうがよかろうが株価さえあがればいいという投資家の本音のように、作品の価値とは実体の無い虚構から生まれるものなのです」、と語るように世界で最もシビアな経済社会の真実を正面から見据えた視点は、単なる一アーティストでなく「ナニがヒトを満足させるか」という核心部分を鋭く洞察している。それはピカソの商才
を踏襲しているのだろうか。
日本を代表する絵師の一人に長谷川等伯(1539-1610)がいる。高野山の有名な「武田信玄像」の作は、その等伯であが、その見解に異論説が浮上している。同様に「源頼朝像」も描かれた人物は「高師直・こうのもろなお」という説があり従来の定説を疑問視する見解がいたるところに浮上している。その研究は専門筋に任せるとして、日本の歴史上の絵画、また古典音楽など西洋文化と比較して、それらが同等に語られることはなかった。東洋のアートが西側に影響を与えていた事実は認められるが、今の日本で古典芸術を正当評価する日本人がいない、ということが最大の問題である。自国の文化を誇りを持って世界にアピールすることが出来ない「日本人」を自覚する必要がある。
村上隆の表現そのものはトリッキーではあるものの、現代日本の持つリアルな世相を鋭敏にキャッチして自らのアートに反映させている。その点で彼は優れた時代の表現者であるし、自らの足元と視点をわきまえたアーティストと断定することが出来る。でなければ世界に通用しない。
付け加えるなら、彼の培った表現素地は日本古典絵画である。