2006-07-01
リテラシー
個人のホームページは利益収益性を抜きに考えれば有名ポータルサイトと互角であることに気付いた。表現アピールするその内容が誰によって構成されているか、そこが問題なのである。その企業所帯が大規模であれば、相応の知名度と営業成績が重要となるが、個人のホームページでは、それとはまったく関係ない。そこにアドセンス広告が貼り付けられることは、どのような意味が生じているのだろうか。このページに貼られた広告をマジマジ眺めていてそんなことを思った(サイト主はクリックすることができない)。
「広告の内容はホームページに書かれたコンテンツに沿って自動的に更新され運営者は何も努力しなくとも-好きなこと-を書いて人々に発信しているだけで広告収入を得られる」、とアドセンスを解説するのは佐々木俊尚氏である。
その当事者としての意見を述べれば、サイト運営者個人の持つ履歴が大きな 要素を占め、それによって表現内容も決められる。アドセンスと云う、まったく新しい広告スタイルが出来上がって、更にインターネット世界の個人ホームページというコンテンツが確立した中で何が表現可能か、と云う歴史上前例のない問題意識に迫られている、ことを私は感じたのである。
この問題に精通している梅田氏の意見を要約してみると次のようになる。
映像ツール、音楽編集ツール、ワード・ソフトツール、イラスト・タブレットツール等々、我々に与えられているからと云って、それが優れた表現者であるとは限らない。しかし、それらを使って以前にもましてよりレベルの高い言語表現・アート表現が可能になったことも事実である、とそんなことを著書で述べる。両氏の意見は「本」という制約の中での記述だから、やや大雑把であることは致し方ない。このサイト運営当事者として補足すると具体的にはこうなる。
音楽編集ツールを使ってオリジナル曲を作るとする。デジタルキーボード、それも高価なものではなく子供にプレゼントする2万程度のキーボードで用が足りる。基本のリズムセクションは内臓されている音のソース、ドラム・ベース、それに合わせた旋律コード編成でまず大まかな曲調を作る。それを一端保存して、モニターしながら次の音源ソースで色付けする。格調高くドラマティクにしたいのならオーケストラ弦の音を選びエディターでリバーブや各種エフェクターを被せてれば大編成オーケストラバック着きの曲が出来上がる。内臓された各種音源ソースと処理の仕方をマスターしていれば30分程度で出来上がる。総てデジタル処理で、それと同等のことをアナログ機材でやろうとすると、とんでもない時間と金がかかる。まして出来上がった曲はノイズだらけの不快音ばかりでまったく徒労という結末に終わる。それでデジタル技術の凄さが判る筈だ。また映像編集ではデジカメ、マルチメディア動画、タブレット・アートなど選択肢は様々に展開する。それらを習得するにはマニュアルを手引に反復学習すれば師匠はいらない。
このように個人のリテラシー表現能力は大ハバ、どころではなく驚異的に拡大した。そうしたコンテンツを使い分け、個人が自分のポータルサイトともいうべきホームページの中に展開することが可能となったのである。この無名の個人が提供するツールを訪問者は見て聴いて楽しむことができる。軽妙洒脱なブログを読みローカルな写真を見る。動画ツールを挿入すれば短編映像もあり、また音楽など私がしている「雅楽」をセットしておけば、日常では遭遇できない音楽を聴くことができる。世界規模のネット社会は世界各地の限定的ローカル色が豊富で私のカテゴリーである世界の民族音楽など、その土地に住むサイト運営者が地元の音楽を載せておけば、日本に居ながらにして世界の民族音楽が聴けると云うわけだ。それも市販されている高価なCDよりもダイレクトな音がデジタルによって世界中を駆け巡る。
ホームページ運営者たる無名の個人は「アドセンス」という広告媒体がセットされたことによって、既存のメディアが展開する広告主番組提供関係と同じ立場に立った。それはwebページが単なる日常日記記述という枠を超えて、番組本体の製作者、そして個人が持つ表現能力を駆使して従来とはまったく異なるメディア戦略が可能である。ましてクライアントの注文など気にすることなく、自分の思うがままの音楽・映像・イラストを表現すればいい。
この提案と実行が実現すれば、旧来そして既存のメディアがやっている不特定多数に向け「撃てば当たる」ような漠然としたものではなく、「誰が誰に対して」という超限定したコンテンツ提供が実現する。そうした関係が成り立てば広告主自体も必然的に変化し零細ではあるが優れたテクノロジーと製品をもった企業を誰が宣伝してくれるか、という関係も派生する。
たった一台のパソコンは、それを実現できるキャパシティをもっている。Googleが動機を与えたアドセンス広告は、インターネット世界に再び新たな可能性を提示したことになる。おそらく、いまのブログは将来的には、そのような道に進むのでは、という予感を抱かせる。
19世紀、イタリア経済学者パレードが提唱した20%対80%比率のパレードの法則が今も生き続けている商業社会の中で、既存の巨大企業は生き延びてきた。その中で個人の存在は玉石混交の中のミクロン以下の石でしかなく「箸にも棒にも」引っかからない木っ端の存在としか見られていなかった。
インターネットを介したパソコンが、それを根底から覆す明日が、やってくる、かもしれない。
2006-06-30
猿とヒト
ヒトの歴史、700万年前にアフリカで誕生、100万年前にアフリカを移動し始めた、というのが現在の解釈でそれが定説となっている。
2004年オーストラリアなどの研究チームが新種の小型人類「ホモフロレシエンシス」の化石確認した。
新聞ニュースには写真がのっており、現代人の頭蓋骨と比較してあるが、やや小さめの「ホモフロ…」頭蓋骨は、人間といえば人間、猿と見ればサルに見えるが、700万年前から様々に枝分かれした人類祖先を特定するというのだから一筋縄ではいかない。
定説では、アジアではソロ人やダーリー人がさらに進化し我々の新人ホモサピエンスになり欧州では旧人ネアンデルタールが新人クロマニヨンに進化した、というのが通説だ。それでアジア系原人の祖先は北京原人ジャワ原人に遡るとした研究報告もあるが、その後それらは絶滅し、人類起源はアフリカの一人の遺伝子から始まる、という説が浮上した。「アフリカ単一起源説」がそれで、新人は20万年前にアフリカの旧人から進化し10万年前から世界各地に拡散した、という説がいま主流である。
問題の「ホモフロレシエンシス」は70万年前ジャワ原人の子孫で現代人とは別系統とされる。
日本で縄文時代が始まる約1万2千年前まで棲息していた可能性があり、小島などに隠れていたため小型化して生き延びたと推定している。
主流定説からするとジャワ原人北京原人の種は絶えたことになっており、その種「ホモフロレシエンシス」が縄文時代1万2千年前まで棲息していたという研究結果と相容れない。
それが今回の「新種」発見であり、これまで主流とされた単一起源説に一石を投じるかも知れない研究結果、ということだ。
日本の縄文時代、そして石器時代も考古学的には幅広く研究されているが、縄文人から弥生人に変化した、その理由と説に決定的なものがなく未だ未知の世界と私は思っている。
グローバルな現代社会、世界の壁がインターネットによって超えられようとしている。もしかすると、1万年前にはそれと同じような劇的変化があったのかもしれない。海洋の民が高度な舟技術を背景に日本に上陸した可能性もあり、ブロードバンド大容量高速情報網がアメリカよりもたらされたことを思うと、「なんだ、人間なんて1万年まえとちっとも変わってないじゃないか」と何故かホッと安心してしまう。
2006-06-27
タイムマシンより俯瞰
photo:小花シリーズ3
茎の繊毛と花のサイズでそのスケール6ミリ程度が判ります
新聞のスクラップは、しばし時間を逆回転して、その事実が過去の出来事でありながら嘘のないリアリティとして、つい読みふけってしまう。その報道が「嘘か真か」を判断するのは歴史が証明するが、一年も満たない時間で新たな真実が露呈するとは甚だ現代的で、それほど時間の進み具合がスピードアップしている現代社会だと認識させられた。その事件とは…。
2005年10月7日読売新聞のトップ記事に ネット記事「見出し無断配信違法」知財高裁判決本社逆転勝訴 初の司法判断 ネット会社に賠償命令 など見出しを抽出してみた。これで大方の内容の検討は付くと思う。相手は神戸のIT会社「デジタルアライアンス」。当事者に関するニュースだからトップにしたのだろう(ではDA側の言い訳は何処にすればいいのだ?)。
世間は余り騒がなかったし私も関心はなかった。ところが、この高裁判決の逆転判決のウラには虚虚実実の駆け引きと、アメリカの思惑と、日本のIT産業の将来を左右する重要なシークレットが隠されていた。その時点では日本側の司法でも、それに関する情報を持っていなかったのでは、と推測できるほどアメリカ側のしたたかな計算があった。
知財勝訴、その理由。「記事の見出しには著作権はないがデジタルアライアンス社は不法行為で利益を得ている」とし、23万円余りの損害賠償支払い命令を下した。事の成行きは2002年12月に違法に著作権を侵害したとして読売新聞社が提訴したのがキッカケだ。その結果は2004年3月、東京地裁一審判決「見出しは記事ではない」として敗訴。その結果を諮ったようなタイミングでGoogleのニュース日本語版サービスが開始、だが日本の三大新聞は拒否した。さらに話は推移し三大新聞はGoogleに記事を提供するようになる。その経緯についてはGoogle社側が新聞社に対して著作権支払いを提示し受託され今に至る。時期が前後するが、では高裁のDA社に対する損害賠償支払命令23万円は何なのか。世界のメディア界では依然Googleに対して門戸を閉ざしている。
パソコンを作動させるOSはアプリケーションプログラムインターフェイス・API規約に準拠して作られる。そのOSが規約に則していることを提供する義務をメーカーは負わされている。しかしマイクロソフト社は総てのAPIを公開せず、その一部を隠蔽していたと、まことしやかな風説がある。それを仮定の上としてマイクロソフト社を考えれば、パソコンOSの覇権99%を掌握し30兆円の時価総額企業になり得たと換言してもいい。この話しを「似て非なるもの」として強いて喩えるならば、読売が講じたDA社への提訴、そして著作権を守るはずの方策は時代の趨勢Googleにひれ伏した、と揶揄されても反論の余地はあるまい。ビジネスの世界であるから金銭のやり取りで契約が成立する。その点で読売とGoogleは争い事もなく 金で解決したのだろう。では敗訴した地方の微弱な一企業DA社の23万円賠償支払いは本来誰が受け取るべき賠償金だったのか。これが30兆円のスケールなら誰もが色めきだつ。国内のライブドア損害賠償問題、村上ファンド事件を参考にするまでもない。
超高度から撮影した衛星写真からは、そんな人間世界の欲得はまるで観えない。その俯瞰図は過ぎ去った過去の話し、2005年10月のことだ。
2006-06-26
トフラー氏の予想
2005年 7月24日の読売新聞に載ったトップコラム「地球を読む」寄稿、アルビン・トフラーの記事は、いま世界中に蔓延しているブログを的確に予想していた。その全文が正鵠を得る内容で全文掲載したいところだが、インターネットと軋轢関係にある新聞社のことであるから著作権の関係上一部引用に留めておく。以下引用文。
<プロの権威への反乱 インターネットの宇宙で爆発的に広がるブログである。何百万もの人々が、これも何百万人もが読むことを期待して自分の意見をそこに書き込んでいる。
長年、職業的な訓練を積んできたジャーナリストや編集者たちは、これに苛立ちブロガーによる報告や発言の信頼性を疑問視する。だが逆に、ブロガーや一般の人々の側はこう問いかける。「主要メディアのニュースなど信頼できるものか。ニューヨーク・タイムズ紙は過去の幾つかの記事が作り話や盗作の塊だったのを認めたし、偶像的な米テレビ・キャスターの一人、ダン・ラザーは州空軍将校だった若い頃のブッシュ大統領の行いを薄弱な根拠で攻撃して信用を失ったじゃないか。最近ではニューズウィーク誌がイスラム教聖典コーランをグアンタナモ基地の米兵が冒とくしたことを記した米政府報告書があるとし報じ、後日撤回した。記事が正しいのか、それとも訂正と撤回の方が正しいのか、世間は釈然としていない。」 政府がメディアを操作している世界に住む多くの人々は、ニュースとされるものの怪しさをとっくに学んでいる。だがそれは報道が自由な民主主義諸国では、あってはならないことである。
情報の信頼性に高まる疑念 反専門化主義の動きと密接に結び付くのが、その道の専門家と一般人を隔てる「資格」要件に対する疑惑の増大である。この制度はまた、しばしば学者や医師など専門職の人々に資格条件をごまかすようそそのかす。例えば大学教授職の志望者の場合、書いた論文や本の内容よりも、それを幾つ書いたかで判定されるかもしれないである。要約すれば、古い制度は正統性の危機に直面している。これは権威の危機である。情報と資格制度に関する専門家たちの独占体制に風穴を開けることによって、人々は、いわば自分自身が自分のための権威となることを模索しているのである。> 以上、トフラー氏のコラム記事。
この記事が現実化した約半年後に、その兆候を鋭敏にキャッチした梅田望夫氏著書「web進化論」(2006.2.10発行)には、次のような記述がある。「つまるところプロフェショナルとは何か、プロフェショナルを認定する権威とは誰なのか、という概念を革新するところへとつながっていく。英語圏では分野限定的だかこの問題が表面化しつつある。ネット上で語り合った結果まとまってくる情報の方が権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家)によって届けられる情報よりも質が高い。そんな予感を多くの人たちが持ち始めた。そしてこの予感が多くの分野で現実のものとなり、さらに専門家もネット上の議論に本気で参加しはじめるとき、既存メディアの権威は本当に揺らいでいく。」
前者トフラー氏、後者梅田氏の論旨は、いま世界中を席捲しているインターネットの脅威を抜きに語れない内容だった。仮にその脅威が存在しなかったなら、「反専門家主義」「権威を認定するのは誰か」、という問いそのモノも存在しない。そして最もリアルタイムな今こそ、インターネット世界が旧来より伝統的に継承してきた既存の概念が覆されるという予感を我々権威外の者に抱かせてくれる。玉石混交にありながら世界中に散在する、かたわらの「石」が今まさに語り始めた。私の書くこの記事は、路傍に咲く僅か数ミリの花のようでもあるが数ミリ円の中にも完結した宇宙が存在し森羅万象のスケールを、そこに投影している。見せ掛けの権威者たちはこの領域に侵入することは絶対できない。トフラー氏の慧眼による一説、「政府がメディアを操作している世界に住む多くの人々はニュースとされるものの怪しさをとっくに学んでいる」、と米国内の怠惰的内情を暴露している。そして現在インターネットがあらゆる分野で驚異的猛威を振るっているが、その原型モデルは米国防総省・高等研究計画局が導入したコンピュータ・ネットワークシステムで、それは1969年のことである。