2007-03-10

クノッソスと小アジアの回路

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東京国立博物館提供 弥生時代後期 台付壷
東京国立博物館平成館考古展示室に展示されているこの台付壷は、愛知県名古屋市高蔵遺跡から出土した。
年代は弥生後期とされる。
解説によると、「ギリシアのクノッソス宮殿出土の土器にも比べうる見事なものとして、バレススタイル(宮廷様式)と呼ばれる」、とこの土器を絶賛する。

2007-03-06

タグ2


photo:ギターエディター画像
ただいまパソコンタグに奮闘中と前日の日記で書いたが、あるサイト内で、私の理想とする個人ホームページを発見した。
そこには無駄な広告類が一切ない。ということはスポンサー無しのページと見ているが、それがまったく個人で作ったものか、それともフリーソフトで作ったものか判定に苦慮している。
何を隠そう、私はいま独自のオリジナルホームページブログを策定中で、そのレイアウトを思案している所なのである。
それには、パソコンの言語タグを習熟しないと、それは不可能である。それは大変な作業で、手間と暇と時間、なにしろ空いた時間が必要である。
それを考えるとフリーソフトで、それにより近いもの、があれば直ぐにでも使いたい。と安直に考えているが、そんなヨコシマな気持ちでいると必ずしっぺ返しを食らう。
判っていながら、いまそれを検索中。

2007-03-05

タグ

                                    photo:websightのディスプレー
ながい間、ブレイクスルーでした。昨年11月14日が最終稿で、その間パソコン上のタグ編集習得に専念していた。
このブログ編集に辿り着くまで、以前と比べて手間がかかるようになり、それもブレイク理由一つとして挙げられ、それと巷溢れるブログの中の1千万分の1としての「マイブログ」は、ほとんど1千万銀河の中のチリ一つに喩えられる。
私のページにグーグルアドセンス広告が張ってあり、クリック数によって成績が分るように仕組まれている。
それを見ればページアクセスも判断でき、マイブログの存在感が確かめられる。
当然と云えばトウゼン、判りきっているその結果として、アクセス数は殆ど無いに等しい数だった。比例してアドセンスの実績もあがる筈がない。
以前、NHKで「Google」を扱った番組が放映され、そこに紹介されていたアメリカ版フリーターとも云うべき若者がアドセンス広告収入で高額の月収を得ていると報告していたが、それは特例中の特例に違いないだろう。
そんなことも頭の隅にあり、このブログから遠のいた理由でもあるだがせっかくのブログだから月一くらいで書こうと思っている。
あるネットサイトを拝見して、なんとエキサイティングなブログもあるものだと感心させられた。書き手は「ベンジャミンフルフォード」氏である。
ネット世界では異端的存在として世界的な著名人でありジャーナリストである。
氏がいまもっとも傾注している事柄、それはある出版物を世に送り出すことである。本は既に出来上がっているらしく、あとはルートに載せて市場に送り出すところまで来てクレームが出た。
「ユダヤ・キリスト教世界支配のカラクリ」とういタイトルの本で、wiesenthal centerから出版停止の要求を提示された。もし、それを拒否して本が市場に出回れば闘いが始まることが予想される。
なんとも居丈高な人が世界には存在するものだと、いたく感心することしきり。氏は言論世界に命を賭けていると思われた。
世の中には、「世間に知られては困る」というシークレット情報がそこいらじゅうに転がっている。とくに日本国内では日本の顔としての企業の、りそな、とか日興などが不正行為を組織ぐるみで隠蔽し、それが発覚して世間の晒しものになった。類型を挙げれはきりがなく経済あるところに必ず不正隠蔽が付きまとう。
ゼネコン談合など、古い商習慣がいまだに組織的に行われている現状で、そこに政治的というか政治屋の利権が絡むから、これはとてつもなく厄介な人間の性、もしくは業と云うべきか。
その陰部シークレットが許せないというのがベンジャミン氏の主張である。
その論説を我々のような火事場見物人無責任者とは違い、紙と鉛筆とパソコンで訴え、尚且つ圧力脅し脅迫まがいのアクションを受けながら、それに対抗しようとする姿勢は並ではない。まさに命を張っていると云えるだろう。
問題の「ユダヤ・キリスト教世界支配のカラクリ」という本は、いまだ購読する段階に至ってはいないが凡その見当はつく。というのは以前、私は同内容の本を読んだことがあるからだ。
その名を「キリスト教封印の世界史」西欧文明のダークサイド、へレン・エラーブ著、である。この本を読むと、欧米世界による世界支配が宗教の名を借りて歴史的に行われてきたことが縷縷書かれてある。
その中で私が特に関心を持ったのは中世から初期近代に行われた宗教的な「異端審問制度」にあった。
宗教の原理にそぐわない哲学・自然科学的論説は一切認められず、現代社会が発展するに不可欠な科学理論と、それを提言した名だたる科学者たちは、ことごとく、この異端審問にかけられ憂うべき処遇を受けている。
いまにして思えば「それは何処から発生する拒否主張か?」と思われるおかしな論法で独裁政治特有のエゴの塊である。その背景に宗教世界が幕を張っていたのだから、それは揶揄されても弁解の余地はなく、また未だにその歴史的行為が持続し問題視されているのは、解決されていない事柄ダークサイドがいたるところに存在していることの証明でもある。
ベンジャミン氏の「言いたいこと」に対して、その反対意見を述べたい人間もいる。
氏のブログにはかなり強烈な言語表現で反論する。
「あなた頭、おかしいです。誇大妄想のスイッチがが入ったとしか思えません」以下云々。
まあ、ブログ特有の過激表現と見れば、なんてことない言葉であり云った、いや云はない、の子どもの程度の喧嘩レベルは結構多い。
つい先日読んだ本「はやぶさ」不死身の探査機と宇宙研の物語、吉田武著がある。
「小惑星イトカワ」に向けて打ち上げられたロケットの物語で、惑星サンプルを持ち帰るという世界でも例をみない離れ業をやった宇宙研のことが克明に描かれている。
その宇宙ロケット国産化の歴史を遡れば「糸川秀夫」という一人の日本人がいて、現在の日本宇宙開発は糸川氏がいなければ存在しなかった、といわれるほど偉大な足跡をのこした人物が糸川秀夫である、とそのことを切々と訴えている。
現在のロケットはニュートン古典力学と量子理論によって構成され打ち上げられることがよく判り、その学問は人間の情緒論とはまったく異なり「いった、いわない」世界とは無縁で、物理現象をどれだけ正確に読み取れるか、というギリシア哲学・自然科学以来の復習おさらいをしているようだ。
またそこにカミの力は必要なくキリストとかアマテラスが立ち会わなくとも「重力と太陽輻射圧」の物理的関係、その確かな数値を拾い上げることで達成される。
量子力学で証明された光子photonには質量があり、宇宙空間に至ってはそれが重要な力として衛星制御に欠かせない物質としてデータに盛り込まれる。
その宇宙無重力空間において「光には質量がある、否ない」、と議論している場合ではなく、太陽輻射圧1000㎡当り一円玉相当の重力を計算に入れないければ人工衛星は目的地に着陸できない。
その理論と、糸川秀夫が最初に打ち上げたペンシル型ロケット技術が今の日本宇宙開発技術の基礎になっている。