ニュートンの秘密の箱
という題名の本が丸善出版から出ております。
(小山慶太著 丸善株式会社) これが中々面白い。
ニュートンの逸話が余すところ無く紹介され、
とても興味深い内容です。
物理学者のスーパースター、ニュートンが錬金術師であったと紹介すると、なにをバカなことをいってるのか、といぶかる事でしょうが約300年前の世相を考えると、アアなるほどと納得される内容です。E=mc2で、その名をとどろかせたアインシュタインもニュートンの古典を学んでいたようです。
ことの発端は1936年の7月ポーツマス伯爵家に代々伝えられていた「箱」、いやパンドラの箱ではありません。でも、それらしい箱ともいえますか。ロンドン、「サザビーズ」オークションに登場したその箱に中にはニュートンの直筆手稿が眠っていたのです。その貴重なオリジナル手稿を経済学者「ケインズ」がその半分を落札したのです。ケインズは箱の中を覗いて驚いた。
その時の驚愕とも驚嘆とも形容しがたい心のショックを「ニュートンの秘密の箱」が伝えているので、そのまま引用します。
「65万語にも及ぶ錬金術のノートだったのである。その量のあまりの多さにケインズは『数学と天文学とは彼(ニュートン)の仕事のほんの一部にすぎず、おそらく最も興味を引いたものでもなかった』と呟いたほどであった。つまりニュートンが生涯にわたり最も熱心に取り組んだものは錬金術であったと考えたのであろう」。
まさにニュートン原稿はパンドラ的箱に匹敵する中味であったのですが、その箱を吟味した人物が世界的な経済学者ケインズであったことが幸いし、その話しに信憑性を与えたのでしょう。
ともかく歴史的逸話とは簡単には生まれないようで、時間的幸運と社会的に信頼される二つ(二人)の要素がピッタリあった時に生まれるようです。
2006-05-12
2006-05-11
量子力学、とは専門物理学の用語ですから一般的に使われることはありません。詳しくは「量子論」のことで素粒子を云います。そのことについてファイマン氏は平易に説明し、古典ニュートン力学の概念をもって量子力学を考えてはいけない、と教えています。
丸善出版社から出ている「いまさら量子力学?」の広告が、その内容を凝縮して書いてありますので紹介すると「量子力学が描き出す自然の姿は私たちの常識に反する面をもっています。しかし、その誕生から65年を経過した今日、量子力学の基本的部分の理解は理論的にも実験的にも急速に進歩し、応用面への展望もふまえて新しい段階へ進もうとしています。素粒子の世界からマクロな超流動・超伝導まで、あらゆる場面に現れる量子力学特有の不思議な現象」。
この量子論についてアインシュタインは次のように語っています。
「量子論の根幹となる思想の特質をごく短く述べるとするなら、こう云っていいでしょう。従来は連続的なものとして見なされて来たある物理的の量は素量子から構成されている、と仮定されなければなりません。量子論で論じられなければならない事実の範囲はいかにも広いものです。そしてこれらの事実は近代において実験技術が著しく進歩したことによって明らかにされて来たのでした」。
チョッとばかり難しい、いや全然理解出来ない内容です。量子とは素粒子で原子核のことを云っているのですが、超ミクロ世界の物理現象ですから人間に関知出来ない領域です。しかし現実世界、拡大して全宇宙のシステムはこの量子によって構成されているのです。そのことに関してニュートン力学以前まで人間は知ることがなかった。紀元前ギリシアの古代自然科学を継承したニュートンのアナログ的自然物理学が根底から覆されてしまった、それが量子論です。この大変革がいま、インターネット上で進行している、と推論するのですが、どうでしょう。
ある「生き物」Aがそこにいた、と仮定します。その目の前には粗目の格子状の檻があり中に好物のエサが置いてあります。「生き物」Aは格子目の寸法よりズッと小さく簡単に素通りできるサイズです。壁に開いた孔をすり抜ける鼠を想定しても結構です。「生き物」Aはサイズか小さいため檻の存在などまったく気にしません。好物のエサは食い放題です。生き物は自然の摂理に従って成長しサイズが大きくなります。そのことを生き物本人はまったく自覚していません。やがて檻の格子目サイズより大きく成長したAは檻から出られなくなります。それでもエサは与えられていますから喰うことに専念し、檻の外の世界を忘れ去ってしまいます。エサは全宇宙に与えられた「時間」と換言してもいいでしょう。
我々人間は、この檻の中に閉じ込められた「A」と置き換えることができないでしょうか。宇宙のサイズは宇宙創生「ビッグバン」以来より決定されている、と解釈することが前提で、その仮説理論が基本です。したがって時間の単位がどのように決定されているか、という宇宙のナゾを解かない限り、総てが仮説に留まってしまいます。
檻のサイズとは銀河系の運行、限定して云えば太陽系の周期に、いささかの変動もないということです。決定されたサイズの中で徘徊する生き物・Aは成長するメカニズムDNAは与えられていますが、予め決定された檻サイズと、自分自身が大きくなる、というギャップを埋められないまま、人類はこの2006年を迎えた、と断言することは魑魅魍魎(チミモウリョウ)でしょうか。
生まれたばかりのサイズというのは総てが小サイズで物理学的に量子であり素粒子と見ることができるでしょう。それは全宇宙の普遍的なサイズと決定されていると思えてならない。では檻のサイズが何故変化しないのか、という矛盾が立ちはだかりますが、そうした矛盾こそがニュートン以来の古典力学ではなかったのか、と真に恣意的な意見ですが考えを羅列してみました。
だからといって私が大学でニュートン力学を学んだ、ということではありません。この分野においてまったくの門外漢で素人の浅学と非難されても反論すべき論拠は何も出ません。だからこそblogの真骨頂が発揮されると自画自賛しているのです。
丸善出版社から出ている「いまさら量子力学?」の広告が、その内容を凝縮して書いてありますので紹介すると「量子力学が描き出す自然の姿は私たちの常識に反する面をもっています。しかし、その誕生から65年を経過した今日、量子力学の基本的部分の理解は理論的にも実験的にも急速に進歩し、応用面への展望もふまえて新しい段階へ進もうとしています。素粒子の世界からマクロな超流動・超伝導まで、あらゆる場面に現れる量子力学特有の不思議な現象」。
この量子論についてアインシュタインは次のように語っています。
「量子論の根幹となる思想の特質をごく短く述べるとするなら、こう云っていいでしょう。従来は連続的なものとして見なされて来たある物理的の量は素量子から構成されている、と仮定されなければなりません。量子論で論じられなければならない事実の範囲はいかにも広いものです。そしてこれらの事実は近代において実験技術が著しく進歩したことによって明らかにされて来たのでした」。
チョッとばかり難しい、いや全然理解出来ない内容です。量子とは素粒子で原子核のことを云っているのですが、超ミクロ世界の物理現象ですから人間に関知出来ない領域です。しかし現実世界、拡大して全宇宙のシステムはこの量子によって構成されているのです。そのことに関してニュートン力学以前まで人間は知ることがなかった。紀元前ギリシアの古代自然科学を継承したニュートンのアナログ的自然物理学が根底から覆されてしまった、それが量子論です。この大変革がいま、インターネット上で進行している、と推論するのですが、どうでしょう。
ある「生き物」Aがそこにいた、と仮定します。その目の前には粗目の格子状の檻があり中に好物のエサが置いてあります。「生き物」Aは格子目の寸法よりズッと小さく簡単に素通りできるサイズです。壁に開いた孔をすり抜ける鼠を想定しても結構です。「生き物」Aはサイズか小さいため檻の存在などまったく気にしません。好物のエサは食い放題です。生き物は自然の摂理に従って成長しサイズが大きくなります。そのことを生き物本人はまったく自覚していません。やがて檻の格子目サイズより大きく成長したAは檻から出られなくなります。それでもエサは与えられていますから喰うことに専念し、檻の外の世界を忘れ去ってしまいます。エサは全宇宙に与えられた「時間」と換言してもいいでしょう。
我々人間は、この檻の中に閉じ込められた「A」と置き換えることができないでしょうか。宇宙のサイズは宇宙創生「ビッグバン」以来より決定されている、と解釈することが前提で、その仮説理論が基本です。したがって時間の単位がどのように決定されているか、という宇宙のナゾを解かない限り、総てが仮説に留まってしまいます。
檻のサイズとは銀河系の運行、限定して云えば太陽系の周期に、いささかの変動もないということです。決定されたサイズの中で徘徊する生き物・Aは成長するメカニズムDNAは与えられていますが、予め決定された檻サイズと、自分自身が大きくなる、というギャップを埋められないまま、人類はこの2006年を迎えた、と断言することは魑魅魍魎(チミモウリョウ)でしょうか。
生まれたばかりのサイズというのは総てが小サイズで物理学的に量子であり素粒子と見ることができるでしょう。それは全宇宙の普遍的なサイズと決定されていると思えてならない。では檻のサイズが何故変化しないのか、という矛盾が立ちはだかりますが、そうした矛盾こそがニュートン以来の古典力学ではなかったのか、と真に恣意的な意見ですが考えを羅列してみました。
だからといって私が大学でニュートン力学を学んだ、ということではありません。この分野においてまったくの門外漢で素人の浅学と非難されても反論すべき論拠は何も出ません。だからこそblogの真骨頂が発揮されると自画自賛しているのです。
玉石混交、宝石と道端に転がる石が混然となって見分けが付かない。解釈として良いか悪いかの区別がつけにくい、とかミソ・クソなど、どれがホンモノなのか判然としない様を著わします。「web進化論」の中で梅田氏が良く使ってい漢字です。その使い方を文中一節を引用して紹介しましょう。
「普通の人が何かを表現したって誰にも届かない、が当時の結論。でもそれは玉石混交の厖大なコンテンツから玉を瞬時に選び出す技術が当時はまだほとんど存在していなかったからである」。
文中内容は、いま世界中で進行しているインターネット上の「作者」が提供する多種多様なコンテンツを選び出すPcのテクニカル部分が未成熟であった時代では、その中から「宝石」を探し出すことが困難であった、ということです。
そのことは私のPc経験上からもまったく同感の意見です。私はamateur musicianとして今も現役で、主に雅楽を演奏していますがインターネットを通して洋楽の自作曲を公開しております。その音楽サイトは日本の楽器メーカーがamateur音楽家を広く一般から募集して曲を配信するというサービスです。デジタル音楽の飛躍的発展で楽器がなくてもパソコンだけで曲が作れるというインフラが整っていますから年齢の制限無く誰でも簡単に曲を投稿することが出来ます。そこには梅田氏の指摘する「石」が無限大で拡散しているのです。中にはプロも混じって曲を公開してますが、それは聴くと直ぐ判ります。巷に氾濫する「音楽」と何ら変りがなく無難ではあるけれども「面白味」に欠けるからです。そのことは梅田氏の云う「ロングテール」世界の枠と一線を画した世界で、それは恐竜の首の世界です。インターネットの可能性とはロングテールの厖大な潜在能力開発ですから、まず圧倒的な量の「石」探しから始まる訳です。その探している当人は誰か、というのが問題で権威者、研究者、評論家、既存メディアなどではありません。「プロフェッショナルとは何か」、「プロフェショナルを認定する権威とは誰なのか」という梅田氏の問い、はたまたアメリカで今もっとも関心のあるその「定義」が重要なのです。
2006-05-09
異口同音、とは異なる人間の口が同じような意見を発言する、という意味の直訳になるでしょう。詳しくは、大勢の人が同じ意見を口にする、と辞書では解説してます。
それをブログのタイトルにした訳ですが、ブログとは世界の口であり開かれた言論の場です。それは旧来から唱えられた個人的な言論意思主張の自由とは違って、もっとフリーな立場で他者の誰からも影響を受けることなく、なおかつ客観的論調を持ち合わせた「市民の声」がブログである、と理解してます。そこには最大公約数的な一般論を基盤にして細部において個人的見解を述べているのが理想です。そうすると必然的に「異口同音」的意見に落ち着くでしょう。
四字熟語はモノゴトの成り立ちを漢字4字で表現し、たった4字で世界観を著わすよう構成されております。異口同音、と類似する意味の「衆目一致」がありますが、これは殆ど使われていないようです。意味はまったく異なりますが、次の例で医食同源というのがあります。読みが多少似ていますが、その意味は、薬も食事も同次元にあって食生活の中にも医療の根源的な要素が含まれる、との教えでイントネーションの読みが似ていても全く違った意味です。漢字は情報伝達の手段の一つですが英語と違ってビジュアル感があり、
絵のように一目見て、この字は何を意味しているか、というのが一目瞭然で非常に直裁的です。ですから、いくどうおん、と、いしょくどうげん、と平仮名で書いては何の意味か判らないものを漢字にすると瞬く間に判断できるという便利なツールです。
2006-05-08
このページを開くと「ブログから収益を Adsense」という項目が表示されます。書いた内容のブログ記事に関連する広告をリンクするシステムのようですが、これもGoogleのオリジナルのようです。既存のサイトとは何もかも違ったコンセプト・アプローチに戸惑いを感じますが逆説的に、我々一般ユーザーはMicrosoftのOSに慣れ親しんだ結果とも云えます。今しばらく様子を伺いながら、このサイトのポリシーを学ぶ必要があるようです。
このGoogleを詳細に知ったのは梅田氏の著作「web進化論」を読んでからです。サイトロゴは以前よりPCに入力されてましたが、その素性が全く判らず「怖いもの」見たさには触りませんでした。ところが、「web進化論」を読んで以来、その考えは180度方向転換しました。梅田氏の「web進化論」は、殆どGoogleのマニュアル書と換言してもいいくらい詳細に紹介してました。
年齢的に私は団塊の世代で世間と商業ベースでは何かと注目されている年齢のようですが、なんのことは無い、ただ年老いて現役引退が控えているだけの話です。ただ人口比率が異常に高いため社会に与える影響が大きく注目の標的になったのでしょう。それはアメリカ本国でも同じようで終戦の申し子が我々世代です。そして今思うことは、この歳が人生の晩年を目前とするか、はたまた人生の機微を読める年齢として、さらなる飛躍に向けて邁進するか、という取捨選択のターニングポイントでもあるようです。私は後者をとりました。そこで「web進化論」を読んでGoogleに出会ったのです。
私のパソコン歴は2年強しかありませんが、これまで多くの趣味を抱えアナログ的にやってましたがパソコンを使うようになって、その範囲が飛躍的に広がりました。とくに音楽ではアナログ生録していたものがデジタル音源をPC処理して音をクリエイトする技法は驚異的なものがあります。音に限らずアートの世界もまったく同様で画像編集ではプロに匹敵するグレードの高さを持っています。いまではPCによってプロとアマチュアの境界が無くなってしまった、といっても過言ではないでしょう。それほどPCの潜在能力は優れキャパシティーを持っています。
そのことは前のブログで前述したように古代、中世、近代より引き継がれてきた文明文化のアナログ的叡智を根底から覆してしまう変革と思えてなりません。また物理学者ファイマン氏がいう量子力学の特質が、従来云われていたニュートン力学以来の常識を塗り替えてしまう、デジタルPC技術は、そのこを具現化しているような出来事であると考えます。
このサイトのブログ入会にあたって一つのテーマを掲げましたが、今しばらくはGoogle内偵に時間が必要です。
掲げたテーマとはタイトル「異口同音」について、分析してみたいと思っております。
2006-05-07
ブログタイトルを「異口同音」としましだが、世界的トレンドのブログの中で何をアピール、また何を書くべきか、が収斂されます。無料のブログが乱立していて私もあっちこっちに寄り道してました。そこで考えたのは窓口は広く解放されているが、肝心の書き手ソフトが充実していなくては野畑に咲く雑草と同類で、数は多いが存在感またブログ価値が希薄になる、との結論に至りました。
そこで、このサイトブログでは一味違ったブログ記事を展開しようかと、目論んでおります。
この「Google」サイトは若き創業者の下に発足した企業であり、これまでに培われたDIGITAL ITインフラを革命的に変革するパワーを秘めている、と梅田氏が力説しておりました。私もまったく同感で第二世代の台頭を心より望んでおります。
次世代への移行は、すでに兆候があり、その潮流を的確に掴むことが時代を読むことにもなります。これまでの社会基盤は古代・中世・近代から引き継いだアナログ的思考歴史の延長でした。デジタル革新は、それらとはまったく異質の世界を作り上げることの出来るテクニカルを秘めています。
そうした変革を、このブログで随所に見せ、また私も変革を形に表すことの表現を文字、絵、画像、音楽などでアピールしたいと考えております。
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