2006-09-09

祭りの季節


古来より日本は稲作の国として生活が成り立っていた。日本全国どこに行っても水田があり、田植えと稲刈りは日本の文化といっても云い。米文化から様々な生活形態も派生し、中でも藁を使った生活の道具が作られた。弥生時代からの稲作とされているから、約2000年の歴史がある。
現在の生活スタイルはすっかり変わって、およそ稲にまつわる生活形式は皆無に等しく、あるとすれば神社で行われる祭りの時に見られる縄のシメ飾りくらいだ。縄はもともと稲で作られており、稲刈りの終わった後の余剰の稲を様々な形に変えて生活の道具とした。
そして秋になると稲刈りをして米を収穫する。今年出来た穀物の収穫を感謝して神に報告する。それが秋祭りとして今でも伝承されている。
私の住む町の神社で、その祭りが9月13日に行われ、同時に神社開祖1200年という節目を迎え、いまその準備をしている最中である。

2006-09-03

縄文土器2

photo: 縄文土器 壷

青森県弘前市十腰内遺跡出土(重文)

「東京国立博物館」ホームページ提供


東京国立博物館ホームページの解説

「球形の胴部に細長い筒状の口頸部に付いた黒色の壷。胴部上半の相対する位置に土偶に似た人形が浮彫風に飾られている。また胴部の中央には磨消縄文帯二条がめぐり、処々に瘤状の突起が付けられる。これらの文様装飾は東北地方の後期縄文土器の特徴を示すものである」。

とてもモダンな、この「人形.ひとがた.装飾付壷」が縄文土器であることに驚きである。縄文後期年代は推定でも紀元前2000年から1000年、縄文土器の始まりは縄文時代草創期、前10000年からとされている。アーティスト・岡本太郎も絶賛した縄文中期の火焔式土器は特に知名度が高い。そして縄文後期に作られた「ひとがた壷」は、年代と地域差が絡んで洗練されたデザインに変化したように見受けられる。                                            特に感じたのは全体のバランスと朴とつ、さであった。ひとがたの文様と突起が何を意味するか不明だが、時代が下った弥生式土器になると装飾類が一切省かれる。この時代の土器制作は窯で焼くことはなく、野火の中に放置して約900度で焼いていたようだ。陶土も粗い粒子の混ざった原始的なもので、現地調達できるものを使っていたのだろう。弥生式土器になるとガラッとデザインが一変してしまうが、古墳時代の「ヒラカ」には縄文土器の作風を継いだものもある。備前焼きで知られる岡山には、古くから古備前という作風があったが、それが縄文土器と通じるものがある。

焼物は、その民族の性質を表わす形だが、縄文後期の4000年前から民族がどのように移動し文明を伝播また消滅を繰り返した変遷を知ることは殆ど不可能に近い。そして唯一の手がかりが姿かたちを留めた物理的証明の土器なのである。縄文土器と古墳時代の土器を比べてみれば時代差を抜きにして同じ場所、同じ時間で比較できる。そこからある程度の類推は可能である。

4000年前の、この縄文土器の壷は現代に残されている全部の焼物を隣に置いて眺めることが出来る。近代に作られた多くの焼物が、縄文の「ひとがた壷」を超えているものがあるだろうか。それだけ造形的に完成していると私は云いたいのだ。