2006-06-03
エーゲ海沿岸の歴史
当サイト広告に「ダ・ヴィンチ・コード」関連の広告が多く載っていたのでダ・ヴィンチの話題ではなく「隠されたナゾ」の部分を少しばかり探ってみたと思った。「2000年間隠されてきた人類の歴史を揺るがす謎とは」、また大層な見出しだ。舞台がパリのルーブル美術館であることも見逃せない歴史の謎解きをするのに好都合である。
その館内に並んだ巨大レリーフ彫刻は紀元前に創られたものばかりだ。とくに多いのがメソポタミア(現イラク)遺跡類。
映画では秘密結社の紋章の鍵…、が思わせぶりだが紀元前の宗教観を詳細に調べると、限定された部族に発生した宗教(神)には今のロゴのようなものがふんだんに使われていた。古代社会の話だから部族間の交流また闘いであって、いまで云う秘密結社に当たるかも知れない。「あいつら密かに悪巧み」をしていると、部族同士がいがみ合えば、それが戦になる。古代歴史を大雑把に捉えれば殺戮史でありそこに崇拝される宗教的神の存在がある。
エーゲ海に浮かぶ小さな島「クレタ島」には、小さいながらも古代歴史のエッセンスが一杯詰っている。とくにギリシアの影響が色濃く残り、また神話そして伝説化した逸話も豊富に語り継がれていた。
クレタ島は地理的に地中海沿岸欧州、北アフリカ、西アジアに歩いて届くほどの距離である。勿論島であるから舟を利用するが、その舟もまた古代歴史を彩っていた。小アジア西の終着にオスマン帝国があるが、アジア文明を吸収するにも好都合の地の利である。
牛頭人間ミノタウロス伝説、当時クレタ島信仰として牡牛信仰があった。地中海世界の覇者となった隣接するギリシアに、そのミノタウロス神話が誕生する。海神ポセイドンから贈られた牡牛と王ミノスの妻パシパエが獣姦によって誕生したのがミノスの牡牛「ミノタウロス」だ。頭が牛、体がヒトの「神」はその後も多くの影響を与え、各地に伝説の神として奉られるようになる。
古代ペルシア紀元前3世紀頃、ミトラス神の神殿には牡牛を殺すミトラス神像が崇拝対象となっていた。そして現代に引き継がれたキリスト神話には守護者ミトラスと類似する信仰形態が多数見られる。冬至の日に近いミトラスの誕生日とイエスの誕生日は同じである。登場する羊飼いの使い方も似て、ミトラスの誕生を知っていたのが羊飼い、そしてミトラスが天に戻る前、「最後の晩餐」において羊飼いはその場にいた。キリスト復活祭イースターは春分の日のミトラスの昇天日でもある。カトリックの総本山バチカンの丘はミトラスを祭る洞窟神殿があった場所である。当時の世界を制覇していたローマ帝国時代の遺産とも云うべき神話・伝説がギリシア神話とも相まって遺り、それはエーゲ海沿岸の歴史、また西欧歴史でもあ。クレタ島に今でも存在するクノッソス遺跡がすべてを語っている。
パリ、ルーブル美術館、イギリス大英博物館に収蔵展示されている数万点の遺跡発掘品にはメソポタミア、ペルシア、アフガニスタンなど世界文明発祥の痕跡をのこす遺品が多い。北アジア圏内のアフガニスタン遺跡には日本の文化にも大きな影響を与えた品も多いが同時にギリシア文明の片鱗もみせている。特に私の心を引きつけたのは「ゼウス神像の左足」で石に刻み込まれた巨大な左足に歴史の総てが凝縮していると咄嗟に思った。それほど説得力をもっている。それらの発掘品がルーブル美術館や大英博物館に収蔵されていること自体が「ナゾ」である。それはスペイン人がインカ文明を抹殺したことと無関係ではないような気がする。
参考文献 ペルシア神話 ジョン・R・ヒネルズ 青土社 森を守る文明・支配する文明 安田喜憲 PHP新書 キリスト教封印の世界史 ヘレン・エラーブ 徳間書店
2006-06-01
ブリンとペイジの物語
「Google」を語るのにブリンとペイジを抜きに語ることはできない。
1999年から2000年にかけて、友人宅のガレージを間借りして「検索エンジンを開発」していたスタンフォード大学の学生、それがブリンとペイジだった。American・Successstoryを絵に描いたような逸話話しである。その後の経緯については「web進化論」に詳しいが、ここでは神の領域について語ってみたい。
web進化論で紹介する「ネットの三大法則」というのがあって、トップに「神の視点からの世界理解」という項目がある。別に宗教的な解釈ではなく、大きな視点をもって地球規模の人間世界を観察する、という意味らしい。それは広義解釈と理解するが、とても小さな領域に限定して神たる領域を観察すると、そこに人間世界また生物世界の宇宙が存在する。野生動物の世界で、親から産み落とされた子が大人へと生育するまでには、とてつもない試練が待ち受ける。それには幸運と自力の生命力が不可欠で運良く勝ち残る確率は1%にも満たない。そこには生命体個人の意思に反して千変万化(多様に変化)な試練が待ち受け、固体の存在価値痕跡を遺すには厳しい現実がある。そうして勝ち残ったのが「Google」、だと私は思う。かりに「神」がいたとして、その力を頂いたのがブリンとペイジだ。
物理学の世界では「用意したものに幸運は宿る」という定型句がある。その場、取り繕いの浅知恵ではなく信念に基づいた研究をコツコツと愚直に進めることこそが神の領域に向かうという比喩である。そんな意味も含めてブリンとペイジには神がニッコリ微笑んだのだろう。
そこまでは何となく理解したが、その先にはもっと大きな力が作用しているようなうな気がしてならない。グーグルのしているコンセプトは余りに巨大で、それは国家的プロジェクトに匹敵する。世界政府を標榜している姿勢もその一環だろう。
かのアインシュタインが相対性理論を提示したのが1905年、当時 26歳。「哲学原理」を著したデカルトは1644年、当時48歳である。因みにブリンとペイジは1973年生まれ。
1999年から2000年にかけて、友人宅のガレージを間借りして「検索エンジンを開発」していたスタンフォード大学の学生、それがブリンとペイジだった。American・Successstoryを絵に描いたような逸話話しである。その後の経緯については「web進化論」に詳しいが、ここでは神の領域について語ってみたい。
web進化論で紹介する「ネットの三大法則」というのがあって、トップに「神の視点からの世界理解」という項目がある。別に宗教的な解釈ではなく、大きな視点をもって地球規模の人間世界を観察する、という意味らしい。それは広義解釈と理解するが、とても小さな領域に限定して神たる領域を観察すると、そこに人間世界また生物世界の宇宙が存在する。野生動物の世界で、親から産み落とされた子が大人へと生育するまでには、とてつもない試練が待ち受ける。それには幸運と自力の生命力が不可欠で運良く勝ち残る確率は1%にも満たない。そこには生命体個人の意思に反して千変万化(多様に変化)な試練が待ち受け、固体の存在価値痕跡を遺すには厳しい現実がある。そうして勝ち残ったのが「Google」、だと私は思う。かりに「神」がいたとして、その力を頂いたのがブリンとペイジだ。
物理学の世界では「用意したものに幸運は宿る」という定型句がある。その場、取り繕いの浅知恵ではなく信念に基づいた研究をコツコツと愚直に進めることこそが神の領域に向かうという比喩である。そんな意味も含めてブリンとペイジには神がニッコリ微笑んだのだろう。
そこまでは何となく理解したが、その先にはもっと大きな力が作用しているようなうな気がしてならない。グーグルのしているコンセプトは余りに巨大で、それは国家的プロジェクトに匹敵する。世界政府を標榜している姿勢もその一環だろう。
かのアインシュタインが相対性理論を提示したのが1905年、当時 26歳。「哲学原理」を著したデカルトは1644年、当時48歳である。因みにブリンとペイジは1973年生まれ。
2006-05-31
古代エジプト王朝「ナクトの墓の女楽師たち」の著作権
写真
古代エジプト壁画 「ナクトの墓の女楽師たち」 BC1412~1402
古代エジプト王朝「ナクト」が宴のために用意した三人の女性楽師の壁画が、色褪せることなく2006年の今日まで約3500年の間、ピラヒッドに佇んでいたことが奇跡である。彼女等の容姿から視て、うら若き少女と判断できる。中央の少女は僅かな腰当てをしているだけで、殆ど裸体の姿を晒している。胸元に据えたリュートの下にはリアルな乳房が露出している。なにか意味があるのだろうか。いまとなってはその意味を解明することは不能である。ナクト王が黄泉の国でも現世と同じような生活を営むことがてきるようにと描かれた壁画である。
写真の元は、「岩崎美術社」 著者仁田三夫 タイトル「古代エジプトの壁画」1997年10月9日第一刷。
この写真をここに提供することが、おそらく何らかの形で著作権に抵触すると思う。敢えて掲載した意味は、古代エジプト遺産を著作権という寡占的権利で公共の場に晒すことが制限される、また晒すことによって相応の権利を有するものに対価を払いなさい、という論理が果たして当然かという疑問だ。著作権に対しては相当の神経を使っているGoogleでさえ、自社ロゴ使用に関してはきめ細かな制限を加えている。
前出、ガリレオが火星の衛星を発見した経緯を暗号化して記録に残した史実が認められるが、パーフェクトなオリジナル権利を死守することは誰が見ても当然であり民主的近代国家であるなら著作権があってしかるべきである。いま商業資本が何にもまして勢力を振るい、その名の下に権利を行使する世界である。それがいま大問題となっている。必要以上な寡占的支配をどこまで認めるのか、という疑問が議論されている。その基盤は何処にあるのかと、その元を手繰れば「パレードの法則」に辿り着く。
イタリアの経済学者パレードが19世紀イギリスの所得形態を研究し20パーセントの富裕層に富が80パーセント集中する、というものだった。その理論は、つい最近まで、そして今でも有効に思われる。そのバックボーンはなにか。
いわゆる社会に棲む権威者を頂点としたその裾野に群がる「プロフェショナル」と総称される一群。まさに寡占的支配を思うがままにコントロールしてきた階層である。その牙城は地球すべての領域にまたがり政治経済は勿論、あらゆるジャンルにおいて人間意識を支配している。何故そうなったのか、何故そうなのか、というアンチテーゼを示すものがこれまでないかった。
世紀の節目にその変革が訪れた。それが「Google」であると、玄人筋がアピールする。「web進化論」の梅田望夫氏、そして「グーグル・既存のビジネスを破壊する」の佐々木俊尚氏、その両雄であ。
クーグルの全貌を理解する、と公言してこのサイトブログに参加した。上記二氏の著書を読んで少しばかりは理解したが、それでも全貌の3%程度でしかない。このサイトに拘わることによって短時間でそれに迫ることを願って、きょうもブログに投稿した。
2006-05-28
百花繚乱:ブログ
美しい花が咲き乱れ、競った美人達が花のようだ、と喩えたのがその言葉の意味のようだ。その様子を傍らで観察している道端の「タヌキ」、それを撮った。
数が多いこと、即ちそれを成熟とは云わないだろう。しかし成熟期には数が必要で、その中からフルイにかけられ淘汰されつつ洗練されて都会的となる。ちまた溢れるブログが、いまその時期なのか成熟したのか、洗練されたのか、判別がつかない状況にある。
「web進化論」によれば、「忙しい現代人にとって最も貴重な資源は時間である。玉石混交から玉を探し出す作業に時間を費やし玉の発見に情熱を注ぐことが出来るのは暇人だけである。暇人がいくらブログが面白いと騒いでも忙しい人の心には届かない。忙しい人には玉の発見にかける時間などないから、玉石混交問題の解決に大きなブレークスルーがなければ相変わらず新聞・雑誌などパッケージされた情報源への依存が続くことになる」…、けだし名言。
著者梅田氏は既存の新聞、雑誌、テレビなどの情報媒体が、いまだに生き続けるだろうとクールな分析をする一方で、なおかつ新興ブログがそれに対抗するにはブレークスルーが必要だ、と説明しグーグルのような全く新しいコンセプトによるi・テクニカルによってそれが実現する、と私なりに解釈する。
現ブログは忙しい人の心を捉える程のパワーもないし時間的余裕もない、すなわち現代人は忙しくて「書く」方も「読む」方もヒマがない。この閉塞をどうするか誰にも判らない。困ったこまったと考えあぐね安閑としていた所にGoogelが彗星のように間隙を突いてきた。一方で国内ITベンチャー企業トップが逮捕されるという、おそまつな醜態を晒す。その隔たりは埋めようがない。
ブログより早急に「玉」探しをして提示しろ、とは一体誰の注文か。時代か社会か、それともIT企業みずからの問いかけか。
未開拓分野のITインフラで「石」ころである表現者達に特段の罪などない。ブログを商品価値として売っているのはIT企業であり、日本国内IT関連企業に限定すれば「流行」だからしているだけで、ブログを将来的な言論のもののふにするなど微塵も考えていないし仕掛人の「明確な意思」がない限り向壁虚構である(虚構、偽物の例え)。作為者がそうなのだから表現者に云わせれば「好き勝手言いたい放題ナニしたっていいジャン」、で百花繚乱である。
面白い本があるので紹介したい。
「哲学原理」デカルト著。桂寿一・訳 岩波文庫(1964年4月16日1刷発行)
一番面白いのが形而上学である。ナニが面白いか、というとまったく判らないところが、ずば抜けてオモシロイ。
形而上学は紀元前、ギリシアの哲学者アリストテレスが勧めた理論で約2500年前の古典哲学である。ラテン語で著したデカルトは1644年の48歳 の時であった。
現代社会の世界的IT革命を考える時、疎かにしてはならないのが古代古典科学であり哲学だ。昨年のことだったが、ネットで広告紹介されていた地方企業の宣伝する「カーボン繊維素材」の利用法で一般にアイディアを公募していた。興味があったので資料請求すると、そのサンプル送られて来た。ネットのバーチャル世界を通して「カーボン繊維」の実物を見たとき、「この事象はアリストテレスでもなければデカルトでもない」と判断した。すなわち、歴史上の架空リアル歴史物語世界よりも、手に触ったカーボン繊維の方がより現実なのである。
ギリシアの七賢人タレスが考え事をしていて井戸に落ちた、その逸話話しを実際見た訳ではないが歴史の史実として記録されている。
アポロが月に着陸したと誰もが思っているが実際にそれを、その場で見たものはいない。
Photo:千葉県夷隅郡の田舎町、ボランティア施設の道標、兼看板の「狸」
長谷川等伯について
画像、長谷川等伯(1539-1610)作の「松林図屏風」は桃山時代に描かれた日 本でも屈指の六曲一双屏風の名作として知られ国宝でもある。現在、東京国立博物館に所蔵されているが常設ではない。数年前、私は東京国立博物館で実物を観察したが作品保護のため照明が暗く、ことのほか小さく見えたが、さすが等伯の息吹を感じ取った。
靄(もや)に沈む込む針葉の松を見事に描き出した作風は、他に比肩するものがない。日本人の心を捉えたその絵は今でも高い人気を誇る。
いま映画「ダ・ヴィンチ・コード」が全世界で公開されているが、その注目はモナリザ、晩餐などに秘められた暗号コードのようで絵画鑑賞とは縁がない。日本の古典絵画屏風類などは絵にコードを埋め込むような姑息?なことはしな
い。自然界に存在する対照を心象的に捉え、作者の筆が趣くままにサッと書き上げる。油絵のように何度も何度も壁塗りもしない。白い和紙の一点に全神経を集中し青墨を載せていく。描き上げられた絵の空白部分は「かすみ」となって絵を構成している。まさに、これは哲学の絵である。
白黒陰陽の世界をものの見事に描いた日本の名品だが、残念なことに欧米人にとって視点が異なるようだ。また外に向け積極的なアピールもしていないようだ。このサイトに集まるユーザーの眼は世界が対象と考えるなら、ここから長谷川等伯の絵画を発信したいと思う。
靄(もや)に沈む込む針葉の松を見事に描き出した作風は、他に比肩するものがない。日本人の心を捉えたその絵は今でも高い人気を誇る。
いま映画「ダ・ヴィンチ・コード」が全世界で公開されているが、その注目はモナリザ、晩餐などに秘められた暗号コードのようで絵画鑑賞とは縁がない。日本の古典絵画屏風類などは絵にコードを埋め込むような姑息?なことはしな
い。自然界に存在する対照を心象的に捉え、作者の筆が趣くままにサッと書き上げる。油絵のように何度も何度も壁塗りもしない。白い和紙の一点に全神経を集中し青墨を載せていく。描き上げられた絵の空白部分は「かすみ」となって絵を構成している。まさに、これは哲学の絵である。
白黒陰陽の世界をものの見事に描いた日本の名品だが、残念なことに欧米人にとって視点が異なるようだ。また外に向け積極的なアピールもしていないようだ。このサイトに集まるユーザーの眼は世界が対象と考えるなら、ここから長谷川等伯の絵画を発信したいと思う。
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