2005年 7月24日の読売新聞に載ったトップコラム「地球を読む」寄稿、アルビン・トフラーの記事は、いま世界中に蔓延しているブログを的確に予想していた。その全文が正鵠を得る内容で全文掲載したいところだが、インターネットと軋轢関係にある新聞社のことであるから著作権の関係上一部引用に留めておく。以下引用文。
<プロの権威への反乱 インターネットの宇宙で爆発的に広がるブログである。何百万もの人々が、これも何百万人もが読むことを期待して自分の意見をそこに書き込んでいる。
長年、職業的な訓練を積んできたジャーナリストや編集者たちは、これに苛立ちブロガーによる報告や発言の信頼性を疑問視する。だが逆に、ブロガーや一般の人々の側はこう問いかける。「主要メディアのニュースなど信頼できるものか。ニューヨーク・タイムズ紙は過去の幾つかの記事が作り話や盗作の塊だったのを認めたし、偶像的な米テレビ・キャスターの一人、ダン・ラザーは州空軍将校だった若い頃のブッシュ大統領の行いを薄弱な根拠で攻撃して信用を失ったじゃないか。最近ではニューズウィーク誌がイスラム教聖典コーランをグアンタナモ基地の米兵が冒とくしたことを記した米政府報告書があるとし報じ、後日撤回した。記事が正しいのか、それとも訂正と撤回の方が正しいのか、世間は釈然としていない。」 政府がメディアを操作している世界に住む多くの人々は、ニュースとされるものの怪しさをとっくに学んでいる。だがそれは報道が自由な民主主義諸国では、あってはならないことである。
情報の信頼性に高まる疑念 反専門化主義の動きと密接に結び付くのが、その道の専門家と一般人を隔てる「資格」要件に対する疑惑の増大である。この制度はまた、しばしば学者や医師など専門職の人々に資格条件をごまかすようそそのかす。例えば大学教授職の志望者の場合、書いた論文や本の内容よりも、それを幾つ書いたかで判定されるかもしれないである。要約すれば、古い制度は正統性の危機に直面している。これは権威の危機である。情報と資格制度に関する専門家たちの独占体制に風穴を開けることによって、人々は、いわば自分自身が自分のための権威となることを模索しているのである。> 以上、トフラー氏のコラム記事。
この記事が現実化した約半年後に、その兆候を鋭敏にキャッチした梅田望夫氏著書「web進化論」(2006.2.10発行)には、次のような記述がある。「つまるところプロフェショナルとは何か、プロフェショナルを認定する権威とは誰なのか、という概念を革新するところへとつながっていく。英語圏では分野限定的だかこの問題が表面化しつつある。ネット上で語り合った結果まとまってくる情報の方が権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家)によって届けられる情報よりも質が高い。そんな予感を多くの人たちが持ち始めた。そしてこの予感が多くの分野で現実のものとなり、さらに専門家もネット上の議論に本気で参加しはじめるとき、既存メディアの権威は本当に揺らいでいく。」
前者トフラー氏、後者梅田氏の論旨は、いま世界中を席捲しているインターネットの脅威を抜きに語れない内容だった。仮にその脅威が存在しなかったなら、「反専門家主義」「権威を認定するのは誰か」、という問いそのモノも存在しない。そして最もリアルタイムな今こそ、インターネット世界が旧来より伝統的に継承してきた既存の概念が覆されるという予感を我々権威外の者に抱かせてくれる。玉石混交にありながら世界中に散在する、かたわらの「石」が今まさに語り始めた。私の書くこの記事は、路傍に咲く僅か数ミリの花のようでもあるが数ミリ円の中にも完結した宇宙が存在し森羅万象のスケールを、そこに投影している。見せ掛けの権威者たちはこの領域に侵入することは絶対できない。トフラー氏の慧眼による一説、「政府がメディアを操作している世界に住む多くの人々はニュースとされるものの怪しさをとっくに学んでいる」、と米国内の怠惰的内情を暴露している。そして現在インターネットがあらゆる分野で驚異的猛威を振るっているが、その原型モデルは米国防総省・高等研究計画局が導入したコンピュータ・ネットワークシステムで、それは1969年のことである。
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