2006-07-17

村上隆・語録に触発され

Posted by Picasa photo:shovel

前項ブログで紹介した村上隆の、「作品の価値とは実体のない虚構から生まれるものなのです」、は私にとって頂門の一針だった。
それはなぜか、真実だからである。激戦区アメリカアートシーンで認められた人間の言葉ゆえ、あらゆる仮面装飾を取り払った後の言葉である。

5年間の成長率40万%という桁違いの恐竜スーパーサウルス並みのベンチャー企業「Google」と、それは重なった。
グーグルは博士号候補による論文アルゴリズムを携えて発足したアメリカの若手ベンチャー企業である(アルゴリズムプログラムシステムのデジタル構成だが端末に現れた裾野ではアナログ的コンテンツを売るデジタル企業)。その点を多方面から比較してインターネットデジタル社会とは、どう云うことを意味するのか。
旧来の権威・プロフェッショナルという恐竜の頭部分に相当する寡占的支配の常識的概念、というより人間世界で約2000年間に培われた自然科学的意識から簡単に脱却できない実像世界観との葛藤ジレンマが表出している、とでも表現すべきか。そしてインターネットにおける不特定多数を狙った玉石混交の中の石の部分、その、にわかに宝になり得るというデジタルコンテンツをネットを介して分け与えたことによって新たに注目され始めた。その方法論がいまだに確立していない状況でサイトコンテンツ提供者ポータル他、ネットメディア提供者は自身の内部においてはデジタルテクノロジーを駆使してサービスを提供するが、出された媒体は人間感覚に訴えるアナログ世界である。
ネット世界が革命を起こす、とはそのメディア提供者が声を高らかに叫ぶことではなく、ロングテールの玉石混交「石」であるセクションが宝になった時であり、圧倒的多数が怒涛の如く世界を覆いつくしたときに始めて革命的といえるのではないか。そして、私とアナタはデジタルテクノロジーの道具である楽器演奏、イラスト、映像等を使って個性感情を表現する。その内容がどうであれ、良い悪いと判断するのは権威でもなくプロでもなくサイト提供者でもなく私とアナタである。
そんなことを村上隆語録「実態の無い虚構である」と私に教えてくれたのである。
プロの歌手が一人で年間1億円稼ぐ金を、1000万人の素人歌手が一人10円稼ぐこと、それがネット世界である。当然その10円で生活は出来ない。生活費は従来の企業で働いて稼ぎ出し余暇を使ってパソコン発信する。それがきわめて現実的であるし不特定多数億単位を取り込むことを前提としたネット社会では単純な計算式である。その1000万人の磨けば宝になるであろう私やアナタにサイト提供者は何が出来るか。広告収入が企業生命の母体であるなら、それを支えているのが私とアナタたちである。その個人に「サァ、宝になって下さい」とステージを用意しデジタルソースを提供して1000万色のカラーを創出することが出来るのがサイト提供者である。個人の表現力を引き出させる優れたソフトを提供することによって、そのサイトのユーザー獲得にも繋がるであろうし又、広告挿入によって購買力アップも期待できる。なにしろネット社会は数の論理であり、もっとも得意とするジャンルなのである。
確率ゼロに近い1億円宝くじと、確率50%の10000円宝くじの、どちらを選ぶか、それは主要サイト提供者も「私とアナタ」もまったく同じ線上に立っている。

2006-07-16

芸術を起業する とはナニか

Posted by Picasa photo:神楽面 龍神

日本の現代アート旗手である村上隆の破天荒な表現は日本のみならず、いまや世界が注目している、といった方が適切か。
その本人は、絵の表現に限定することなく多方面で才能を発揮する。
数年前、NHKで彼の製作現場を取材した番組が放映された。アートシーンというより、彼のもとに集まる若手アート志願者の修行道場といった内容である。超一流アーティスト村上隆が、アート修行若者に向ける辛辣な言葉に耐えられず挫折する様子が描かれていた。一流プロを志すものの基本を教えているが、それが伝わらないイライラをよく表現していた。彼はすべてにおいて饒舌である。それを語るように自身による本を出版した。「芸術起業論」(村上隆著 幻冬舎)というタイトルからして特異であり、えっ、そんなのアリ…、と思わせた。作品がオークション1億円で落札、で判るように彼のアートは、かつてのアメリカ現代アート旗手アンディー・ウォフォールと類似するように思う。「これが絵です」という既成概念を外れ、人々をアッと驚かせる。マンガに描かれたキャラクターを立体フィギュアにして日本の誇るマンガを世界にアピールした。彼の舞台はほとんどアメリカだが、「会社の成績が悪かろうがよかろうが株価さえあがればいいという投資家の本音のように、作品の価値とは実体の無い虚構から生まれるものなのです」、と語るように世界で最もシビアな経済社会の真実を正面から見据えた視点は、単なる一アーティストでなく「ナニがヒトを満足させるか」という核心部分を鋭く洞察している。それはピカソの商才
を踏襲しているのだろうか。
日本を代表する絵師の一人に長谷川等伯(1539-1610)がいる。高野山の有名な「武田信玄像」の作は、その等伯であが、その見解に異論説が浮上している。同様に「源頼朝像」も描かれた人物は「高師直・こうのもろなお」という説があり従来の定説を疑問視する見解がいたるところに浮上している。その研究は専門筋に任せるとして、日本の歴史上の絵画、また古典音楽など西洋文化と比較して、それらが同等に語られることはなかった。東洋のアートが西側に影響を与えていた事実は認められるが、今の日本で古典芸術を正当評価する日本人がいない、ということが最大の問題である。自国の文化を誇りを持って世界にアピールすることが出来ない「日本人」を自覚する必要がある。
村上隆の表現そのものはトリッキーではあるものの、現代日本の持つリアルな世相を鋭敏にキャッチして自らのアートに反映させている。その点で彼は優れた時代の表現者であるし、自らの足元と視点をわきまえたアーティストと断定することが出来る。でなければ世界に通用しない。
付け加えるなら、彼の培った表現素地は日本古典絵画である。

2006-07-14

時々刻々

つい先日、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏が事実上の現役引退表明したことは、このブログに書いたが、その重大な理由が判明した。2006年7月13日読売新聞に載った記事が、それを語っていた。
「マイクロソフト独禁法違反 EU410億円追加制裁」の見出しである。
私が以前よりマイクロソフト社に抱いていた懸念項目「基本ソフト・ウインドウズ、と応用ソフトの接続に関する情報を開示しパソコンメーカーが自由にOSに応用ソフトを追加できるようにする」、それが最大の争点であり今回の制裁原因にもなっている。マイクロソフトの技術情報開示という問題がビル・ゲイツ氏を現役引退に追い込んだとも云えるし、また今日のマイクロソフトを築き上げた要因がまさに「ソレ」だった。

2006-07-12

2007年インターネットの明日









Posted by Picasaphoto: original logo

MONEY LAUNDERING・資金浄化は、闇金融取引の世界で行われる世界を駆巡る複雑な非合法の手法だが、日本のITベンチャー企業がそれに手を染めトップが逮捕されたことは周知の事実である。
写真のlogo、自分でデザインしてその該当するサイトにデザイン部門に応募した。痛烈批判を込めて送付したが当然採用されることはなかった。
「THE Search」に紹介された、それに関連する事項を引用するが、その隔たりが余りにも大きすぎ言葉を失う。
「IBMは2004年2月にソフトウエア会社のセマジック社と共同でマネーロンダリング探知アプリケーションを開発し、すでに金融機関で採用されたと発表した。最初の導入先はシティバンクと見られる」。
「THE Search」は新興IT企業「グーグル」の内部を克明に追ったドキュメント本である。今や世界の趨勢グーグルだが、その先を展望したコンセプトとして何が展開するのかという予測のもとにIBMのソフトアプリケーションを紹介していた。現在のインターネット世界、いまだ混沌として未成熟な様子がそれで垣間見える。
邪悪にならない、というスローガンを掲げたグーグル、それを実践するかのようにアドセンス広告にはユニセフの募金広告が載っている。「子どもにふさわしい世界、ユニセフ子ども最新情報、ご支援情報」、と私のトップページに掲載されていた。
あえて運命に立ち向かう、という鳥肌の立つような言葉を正面から掲げた姿勢を悪意に詮索する者はいないだろう。還って、それが新鮮な響きとして聞こえてしまう現在の風潮、「慈善事業なんかに精を出してるヒマはない」と60年間云い続けてきた世界のトップ企業に対するアンチテーゼ、また、そうしたものに一切の興味も示さなかった平穏市民に対してのアプローチかもしれない。世の中の摂理、無秩序に放っておけば欲得に長けたものの世界に充満されてしまう。新興ネット世界がその例で、素性の明かさない闇サイトが暗躍し寄生虫のごとく旨い汁を吸って生きている。古来より必要悪というカテゴリーに安住して彼らは延命しているようだが旧来アナログ社会でそれは通用したが中抜きネット社会では、既存商法と同じく古来慣習は破棄された。生物学的に無菌状態による弊害が、にわかに注目され総てが悪とは言い切れない環境が必要であるとの論調が出始めている。そのことを、お互いが肝に命じて次の10年の展望を担う必要がある。必要悪の根拠とは何か、無菌状態を解析することによって何が防御で何が維持なのか、それを徹底的に検証する必要がある。
旧来から引き継ぐ既存の概念と商法の中に、悪と無菌を情緒的にではなく科学的に分析したデータが過去にあっただろうか。ネット内に遊泳するアルゴリズムサーチが寸分の狂いも無くそれらを選り分ける能力を持つ精度が、いま要求されている。できないことではない。
ギリシア紀元前5世紀より哲学自然科学は営々として築かれてきた。その実績が今日のデジタル社会を創造した。その足跡を辿れば、邪悪を極力排除することは不可能ではない。全部は無理だろう。なにしろ邪悪の病巣は他ならぬ、我々人間世界の一部から発生しいるからである。

2006-07-10

nation・ネーション 民族による国家

Posted by Picasa photo:楽器に装飾された龍のレリーフ


「THE Search」(ジョン・バッテル著)を読み進んでいる内に、日本とアメリカ、その思考スケールの違いに愕然とする。
特に思ったのはスタンフォード大学が世界経済に与える影響に関してのリアルな経済効果だった。日本の公的教育機関、「東京大学」が、そのようなダイナミックな研究成果を現経済社会に与えているのか、という比較疑問を抱かせるような問題提起を示唆していた。国家教育の根源的な主題、誰に何を教え、その成果を何処に伝播喧伝反映させるのか、というモノの道筋がアメリカでは明確に示されている、と私は思った。「THE Search」には、その具体的な日常が克明に明かされていた。歴史、民族、国家という複雑な要素が絡んで、「これとソレ」を単純に同一の枠で比較することは出来ない。だが、宇宙規模で運行している地球のサイクルは全世界がリアルタイム同時進行で進み、タイムマシンがセットされない限り地球の裏も表も12時間差の僅かな誤差でしかない。その中で全世界の人間が生活していると考えれば、或る事象に関して共有し運命共同体である。今、世界規模で進行しているIT革命の本質を正確に理解すること、即ちそれがアメリカの<スタンフォード・シリコンバレー>そして、若手ベンチャーを育て上げる国家的土壌の家族構成(親の職歴)、それらの動向を逐一リサーチすることである、と私は思う。

*テポドン その後*
「政府高官は7日昼、北朝鮮が5日午前5時頃発射したテポドン2号について、ハワイそのものを狙ったか分からないが、だいたいハワイの方向に撃ったのではないか、と述べ、照準が米ハワイ州周辺に合わせられていた可能性が高いとの見方を示した」。7月8日付 日刊スポーツ記事

2006年7月7日付 千葉日報新聞記事抜粋
-転形期への座視- 山崎正和 大阪大名誉教授 劇作家
「近代化とは原理的には、苦痛を逃れたいという人間の衝動に根差した運動でそれは他者の苦痛もみたくないという共感の感覚につながる。そしてさらに世界を統一的にみて、暴力でなく理性で支配しようとする世界観が生じる。そこで成立した想像力の形式が世界中に広まったのが20世紀だった。」
「米国中心の世界秩序を、否定しようのない現実、と受け止め、理想状態ではないと知りながら桃源郷はありえないことを覚悟して行動すること、が必要とする現実的選択の結果だった」。

モノゴトの事象を捉えるとき、立場がどうであれ人の基準は主観で判断する。その結果がテポドン事件であり、平和国家日本から見た狭義世界的観測判断が展開する。中世キリスト教異端審問時代とは隔たった2006年の今日に至って言論の自由は大幅に解放されている。かといって人間世界の様式が全面的に変革した、ということではない。相変わらず好き勝手なことをしているのがヒトの行動だ。ナニが正しく、どれがホンモノか、さっぱり分からない、それは真にパソコンの中味とソックリだ。

2006-07-09

ザ・サーチ

Posted by Picasaphoto:自筆篆書




日経BP社「ザ・サーチ クーグルが世界を変えた」、を今読んでいる。
Googleに関する本はこれで三冊目になった。最初が梅田氏の「web進化論」、続いて佐々木氏による「グーグル 既存のビジネスを破壊する」であったが、何れも日本人による視点からの描写である。
今回、日経BP社による「ザ・サーチ」は米IT世界の只中にいるジョン・バッテル氏による著書で、その内容も具体的でリアリティーがある。
もちろん、中谷和男氏訳による翻訳書であるが、翻訳であることを忘れさせてくれるようなドキュメントである。まだ冒頭しか読んでないが、その先が楽しみである。

2006-07-06

日常テポドン事件、とそれ以外の重要な研究… 

Posted by Picasa photo:蓮の花と実と虫

2006年7月6日の日本国内と世界主要国間で極力触れたくない問題が、またまた問題を起こした。
テポドンを発射した、とういニュースが号外で報じられる程緊迫した外交問題を提起していながら、「有事」ではない単なるゲームだ、というような雰囲気の報道だ。特に、この種の問題には触れたくな各国の国家元首もそう思っている以上、誰もが避けて通りたい掻痒としたイヤーな話題が7発のミサイル発射で更新されてしまった。その意図と思惑など、考えたくもない意思表示を敢えてしている「あちら側」の気持ちなど、今となってはどうでもいい。
この事態、ある年代(限定も無く布告である)だったら宣戦布告と受け止め、即時応戦しているはずだが肝心の日本は着弾距離圏内射程距離に充分届いているにもかかわらず、世界情勢外交対応に終始して「プラスにはならない」などと悠長な態度だ。国家元首がそう表明している以上、国民は従うしかなく、それがもし東京に着弾したら「東京が被弾しました」とニュースで報道されるだけなのか?
それほど間抜けな戦略防衛策を採る日本ではないと信じ、この話題は一まず終わりにする。

いま「量子コンピュータ」が次世代の候補として研究されている。光の粒、光子・原子を操作し0、1の記号を同時に併せ持つ性質をコントロールするという。1971年3月、インテルよりマイクロプロセッサ「4004」が開発された。「マイクロプロセッサの数が文明の尺度」と自ら語ったインテル創業者、故ロバート・ノイス。そこで働いていた一人の日本人エンジニア「嶋正利」氏(62)の手によってマイクロプロセッサは開発され成功に至った。
その氏が次の時代の未来像を描く。<次はパソコンの間をつないでスーパーコンピュータ並みに計算力を高める「クラスター」の時代になる。一人一人スパコンを持つ、全く新しい時代になりそうです。> (2006.7/2日千葉日報 記事)

2006-07-01

リテラシー

Posted by Picasa
個人のホームページは利益収益性を抜きに考えれば有名ポータルサイトと互角であることに気付いた。表現アピールするその内容が誰によって構成されているか、そこが問題なのである。その企業所帯が大規模であれば、相応の知名度と営業成績が重要となるが、個人のホームページでは、それとはまったく関係ない。そこにアドセンス広告が貼り付けられることは、どのような意味が生じているのだろうか。このページに貼られた広告をマジマジ眺めていてそんなことを思った(サイト主はクリックすることができない)。
「広告の内容はホームページに書かれたコンテンツに沿って自動的に更新され運営者は何も努力しなくとも-好きなこと-を書いて人々に発信しているだけで広告収入を得られる」、とアドセンスを解説するのは佐々木俊尚氏である。
その当事者としての意見を述べれば、サイト運営者個人の持つ履歴が大きな 要素を占め、それによって表現内容も決められる。アドセンスと云う、まったく新しい広告スタイルが出来上がって、更にインターネット世界の個人ホームページというコンテンツが確立した中で何が表現可能か、と云う歴史上前例のない問題意識に迫られている、ことを私は感じたのである。
この問題に精通している梅田氏の意見を要約してみると次のようになる。
映像ツール、音楽編集ツール、ワード・ソフトツール、イラスト・タブレットツール等々、我々に与えられているからと云って、それが優れた表現者であるとは限らない。しかし、それらを使って以前にもましてよりレベルの高い言語表現・アート表現が可能になったことも事実である、とそんなことを著書で述べる。両氏の意見は「本」という制約の中での記述だから、やや大雑把であることは致し方ない。このサイト運営当事者として補足すると具体的にはこうなる。
音楽編集ツールを使ってオリジナル曲を作るとする。デジタルキーボード、それも高価なものではなく子供にプレゼントする2万程度のキーボードで用が足りる。基本のリズムセクションは内臓されている音のソース、ドラム・ベース、それに合わせた旋律コード編成でまず大まかな曲調を作る。それを一端保存して、モニターしながら次の音源ソースで色付けする。格調高くドラマティクにしたいのならオーケストラ弦の音を選びエディターでリバーブや各種エフェクターを被せてれば大編成オーケストラバック着きの曲が出来上がる。内臓された各種音源ソースと処理の仕方をマスターしていれば30分程度で出来上がる。総てデジタル処理で、それと同等のことをアナログ機材でやろうとすると、とんでもない時間と金がかかる。まして出来上がった曲はノイズだらけの不快音ばかりでまったく徒労という結末に終わる。それでデジタル技術の凄さが判る筈だ。また映像編集ではデジカメ、マルチメディア動画、タブレット・アートなど選択肢は様々に展開する。それらを習得するにはマニュアルを手引に反復学習すれば師匠はいらない。
このように個人のリテラシー表現能力は大ハバ、どころではなく驚異的に拡大した。そうしたコンテンツを使い分け、個人が自分のポータルサイトともいうべきホームページの中に展開することが可能となったのである。この無名の個人が提供するツールを訪問者は見て聴いて楽しむことができる。軽妙洒脱なブログを読みローカルな写真を見る。動画ツールを挿入すれば短編映像もあり、また音楽など私がしている「雅楽」をセットしておけば、日常では遭遇できない音楽を聴くことができる。世界規模のネット社会は世界各地の限定的ローカル色が豊富で私のカテゴリーである世界の民族音楽など、その土地に住むサイト運営者が地元の音楽を載せておけば、日本に居ながらにして世界の民族音楽が聴けると云うわけだ。それも市販されている高価なCDよりもダイレクトな音がデジタルによって世界中を駆け巡る。
ホームページ運営者たる無名の個人は「アドセンス」という広告媒体がセットされたことによって、既存のメディアが展開する広告主番組提供関係と同じ立場に立った。それはwebページが単なる日常日記記述という枠を超えて、番組本体の製作者、そして個人が持つ表現能力を駆使して従来とはまったく異なるメディア戦略が可能である。ましてクライアントの注文など気にすることなく、自分の思うがままの音楽・映像・イラストを表現すればいい。
この提案と実行が実現すれば、旧来そして既存のメディアがやっている不特定多数に向け「撃てば当たる」ような漠然としたものではなく、「誰が誰に対して」という超限定したコンテンツ提供が実現する。そうした関係が成り立てば広告主自体も必然的に変化し零細ではあるが優れたテクノロジーと製品をもった企業を誰が宣伝してくれるか、という関係も派生する。
たった一台のパソコンは、それを実現できるキャパシティをもっている。Googleが動機を与えたアドセンス広告は、インターネット世界に再び新たな可能性を提示したことになる。おそらく、いまのブログは将来的には、そのような道に進むのでは、という予感を抱かせる。
19世紀、イタリア経済学者パレードが提唱した20%対80%比率のパレードの法則が今も生き続けている商業社会の中で、既存の巨大企業は生き延びてきた。その中で個人の存在は玉石混交の中のミクロン以下の石でしかなく「箸にも棒にも」引っかからない木っ端の存在としか見られていなかった。
インターネットを介したパソコンが、それを根底から覆す明日が、やってくる、かもしれない。

2006-06-30

猿とヒト

Posted by Picasa photo:パソコン画面 音の形

ヒトの歴史、700万年前にアフリカで誕生、100万年前にアフリカを移動し始めた、というのが現在の解釈でそれが定説となっている。
2004年オーストラリアなどの研究チームが新種の小型人類「ホモフロレシエンシス」の化石確認した。
新聞ニュースには写真がのっており、現代人の頭蓋骨と比較してあるが、やや小さめの「ホモフロ…」頭蓋骨は、人間といえば人間、猿と見ればサルに見えるが、700万年前から様々に枝分かれした人類祖先を特定するというのだから一筋縄ではいかない。
定説では、アジアではソロ人やダーリー人がさらに進化し我々の新人ホモサピエンスになり欧州では旧人ネアンデルタールが新人クロマニヨンに進化した、というのが通説だ。それでアジア系原人の祖先は北京原人ジャワ原人に遡るとした研究報告もあるが、その後それらは絶滅し、人類起源はアフリカの一人の遺伝子から始まる、という説が浮上した。「アフリカ単一起源説」がそれで、新人は20万年前にアフリカの旧人から進化し10万年前から世界各地に拡散した、という説がいま主流である。
問題の「ホモフロレシエンシス」は70万年前ジャワ原人の子孫で現代人とは別系統とされる。
日本で縄文時代が始まる約1万2千年前まで棲息していた可能性があり、小島などに隠れていたため小型化して生き延びたと推定している。
主流定説からするとジャワ原人北京原人の種は絶えたことになっており、その種「ホモフロレシエンシス」が縄文時代1万2千年前まで棲息していたという研究結果と相容れない。
それが今回の「新種」発見であり、これまで主流とされた単一起源説に一石を投じるかも知れない研究結果、ということだ。
日本の縄文時代、そして石器時代も考古学的には幅広く研究されているが、縄文人から弥生人に変化した、その理由と説に決定的なものがなく未だ未知の世界と私は思っている。
グローバルな現代社会、世界の壁がインターネットによって超えられようとしている。もしかすると、1万年前にはそれと同じような劇的変化があったのかもしれない。海洋の民が高度な舟技術を背景に日本に上陸した可能性もあり、ブロードバンド大容量高速情報網がアメリカよりもたらされたことを思うと、「なんだ、人間なんて1万年まえとちっとも変わってないじゃないか」と何故かホッと安心してしまう。

2006-06-27

タイムマシンより俯瞰


Posted by Picasaphoto:小花シリーズ3 
茎の繊毛と花のサイズでそのスケール6ミリ程度が判ります


新聞のスクラップは、しばし時間を逆回転して、その事実が過去の出来事でありながら嘘のないリアリティとして、つい読みふけってしまう。その報道が「嘘か真か」を判断するのは歴史が証明するが、一年も満たない時間で新たな真実が露呈するとは甚だ現代的で、それほど時間の進み具合がスピードアップしている現代社会だと認識させられた。その事件とは…。

2005年10月7日読売新聞のトップ記事に ネット記事「見出し無断配信違法」知財高裁判決本社逆転勝訴 初の司法判断 ネット会社に賠償命令 など見出しを抽出してみた。これで大方の内容の検討は付くと思う。相手は神戸のIT会社「デジタルアライアンス」。当事者に関するニュースだからトップにしたのだろう(ではDA側の言い訳は何処にすればいいのだ?)。
世間は余り騒がなかったし私も関心はなかった。ところが、この高裁判決の逆転判決のウラには虚虚実実の駆け引きと、アメリカの思惑と、日本のIT産業の将来を左右する重要なシークレットが隠されていた。その時点では日本側の司法でも、それに関する情報を持っていなかったのでは、と推測できるほどアメリカ側のしたたかな計算があった。
知財勝訴、その理由。「記事の見出しには著作権はないがデジタルアライアンス社は不法行為で利益を得ている」とし、23万円余りの損害賠償支払い命令を下した。事の成行きは2002年12月に違法に著作権を侵害したとして読売新聞社が提訴したのがキッカケだ。その結果は2004年3月、東京地裁一審判決「見出しは記事ではない」として敗訴。その結果を諮ったようなタイミングでGoogleのニュース日本語版サービスが開始、だが日本の三大新聞は拒否した。さらに話は推移し三大新聞はGoogleに記事を提供するようになる。その経緯についてはGoogle社側が新聞社に対して著作権支払いを提示し受託され今に至る。時期が前後するが、では高裁のDA社に対する損害賠償支払命令23万円は何なのか。世界のメディア界では依然Googleに対して門戸を閉ざしている。
パソコンを作動させるOSはアプリケーションプログラムインターフェイス・API規約に準拠して作られる。そのOSが規約に則していることを提供する義務をメーカーは負わされている。しかしマイクロソフト社は総てのAPIを公開せず、その一部を隠蔽していたと、まことしやかな風説がある。それを仮定の上としてマイクロソフト社を考えれば、パソコンOSの覇権99%を掌握し30兆円の時価総額企業になり得たと換言してもいい。この話しを「似て非なるもの」として強いて喩えるならば、読売が講じたDA社への提訴、そして著作権を守るはずの方策は時代の趨勢Googleにひれ伏した、と揶揄されても反論の余地はあるまい。ビジネスの世界であるから金銭のやり取りで契約が成立する。その点で読売とGoogleは争い事もなく 金で解決したのだろう。では敗訴した地方の微弱な一企業DA社の23万円賠償支払いは本来誰が受け取るべき賠償金だったのか。これが30兆円のスケールなら誰もが色めきだつ。国内のライブドア損害賠償問題、村上ファンド事件を参考にするまでもない。
超高度から撮影した衛星写真からは、そんな人間世界の欲得はまるで観えない。その俯瞰図は過ぎ去った過去の話し、2005年10月のことだ。

2006-06-26

トフラー氏の予想

Posted by Picasa photo:小花シリーズ、更に小さな野草

2005年 7月24日の読売新聞に載ったトップコラム「地球を読む」寄稿、アルビン・トフラーの記事は、いま世界中に蔓延しているブログを的確に予想していた。その全文が正鵠を得る内容で全文掲載したいところだが、インターネットと軋轢関係にある新聞社のことであるから著作権の関係上一部引用に留めておく。以下引用文。

プロの権威への反乱 インターネットの宇宙で爆発的に広がるブログである。何百万もの人々が、これも何百万人もが読むことを期待して自分の意見をそこに書き込んでいる。

長年、職業的な訓練を積んできたジャーナリストや編集者たちは、これに苛立ちブロガーによる報告や発言の信頼性を疑問視する。だが逆に、ブロガーや一般の人々の側はこう問いかける。「主要メディアのニュースなど信頼できるものか。ニューヨーク・タイムズ紙は過去の幾つかの記事が作り話や盗作の塊だったのを認めたし、偶像的な米テレビ・キャスターの一人、ダン・ラザーは州空軍将校だった若い頃のブッシュ大統領の行いを薄弱な根拠で攻撃して信用を失ったじゃないか。最近ではニューズウィーク誌がイスラム教聖典コーランをグアンタナモ基地の米兵が冒とくしたことを記した米政府報告書があるとし報じ、後日撤回した。記事が正しいのか、それとも訂正と撤回の方が正しいのか、世間は釈然としていない。」 政府がメディアを操作している世界に住む多くの人々は、ニュースとされるものの怪しさをとっくに学んでいる。だがそれは報道が自由な民主主義諸国では、あってはならないことである。

情報の信頼性に高まる疑念 反専門化主義の動きと密接に結び付くのが、その道の専門家と一般人を隔てる「資格」要件に対する疑惑の増大である。この制度はまた、しばしば学者や医師など専門職の人々に資格条件をごまかすようそそのかす。例えば大学教授職の志望者の場合、書いた論文や本の内容よりも、それを幾つ書いたかで判定されるかもしれないである。要約すれば、古い制度は正統性の危機に直面している。これは権威の危機である。情報と資格制度に関する専門家たちの独占体制に風穴を開けることによって、人々は、いわば自分自身が自分のための権威となることを模索しているのである。> 以上、トフラー氏のコラム記事。

この記事が現実化した約半年後に、その兆候を鋭敏にキャッチした梅田望夫氏著書「web進化論」(2006.2.10発行)には、次のような記述がある。「つまるところプロフェショナルとは何か、プロフェショナルを認定する権威とは誰なのか、という概念を革新するところへとつながっていく。英語圏では分野限定的だかこの問題が表面化しつつある。ネット上で語り合った結果まとまってくる情報の方が権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家)によって届けられる情報よりも質が高い。そんな予感を多くの人たちが持ち始めた。そしてこの予感が多くの分野で現実のものとなり、さらに専門家もネット上の議論に本気で参加しはじめるとき、既存メディアの権威は本当に揺らいでいく。」

前者トフラー氏、後者梅田氏の論旨は、いま世界中を席捲しているインターネットの脅威を抜きに語れない内容だった。仮にその脅威が存在しなかったなら、「反専門家主義」「権威を認定するのは誰か」、という問いそのモノも存在しない。そして最もリアルタイムな今こそ、インターネット世界が旧来より伝統的に継承してきた既存の概念が覆されるという予感を我々権威外の者に抱かせてくれる。玉石混交にありながら世界中に散在する、かたわらの「石」が今まさに語り始めた。私の書くこの記事は、路傍に咲く僅か数ミリの花のようでもあるが数ミリ円の中にも完結した宇宙が存在し森羅万象のスケールを、そこに投影している。見せ掛けの権威者たちはこの領域に侵入することは絶対できない。トフラー氏の慧眼による一説、「政府がメディアを操作している世界に住む多くの人々はニュースとされるものの怪しさをとっくに学んでいる」、と米国内の怠惰的内情を暴露している。そして現在インターネットがあらゆる分野で驚異的猛威を振るっているが、その原型モデルは米国防総省・高等研究計画局が導入したコンピュータ・ネットワークシステムで、それは1969年のことである。

2006-06-23

アテンション  ActiveX  javascript 

Posted by Picasa photo
いま旬の野辺に咲くカレンな野草を撮りました。花弁10ミリも満たない花ですが堂々たる存在感を持っています。
このところインターネット世界の毀誉褒貶を綴っている。その延長で、では「ネット世界の将来展望はどうなのか」という疑問が湧いてきた。世界の経済政治に大きな影響力を与えるようになったインターネット、10年後のネット世界はどのような変貌を遂げているのだろうか。
「アテンション」が次世代のキーワードになるとの予測がある。いまのところ風説の風上にも上がっていないアテンションだが、いずれ世間で流行言葉になるだろう。
「attention」(注目度)は、インターネット世界に広がる膨大な情報の中で何をチョイスするのか、という視点に立ったとき選択肢の要素として「注目」されることが重要であると、アメリカの研究家が指摘した。社会より注目される動向とは取り立てて新しいアクションではない。だが、これまで歴史上で経験したことのなかった世界規模の情報網インターネットがもたらす多様なコンテンツの中で、何が勝ち残るのかという設問に対して、それがアテンションであるとしている。「インターネットの時代では企業と個人は等価値になり権威の価値は相対的に低下している」、と述べるのは佐々木俊尚氏だが、まったく同様のことを梅田氏も述べている。それは既にアメリカの一部の人々によって権威というものが疑問視され始めているからだ。
我々一般民は、この権威によって、どれほど媚びへっらってきたことか。その権威の源泉力が一体どこから来ているのかということも知らずに。その問題の深層にはインターネットに棲む名も無き個人が権威社会とは無縁の場所で饒舌に喋り始めたことが、その既成概念を際立たせたことにある。権威支配社会で一般の民は、個人主張の場も無ければ機会も与えられていなかった。唯一それを抱かせたメディア世界は、商業主義世界のなかで権威者の一翼を担う「舎人」的存在で君主に対しては従順であった。したがって下層階級に棲む我々は一蓮托生にあるそれら権威者以下諸々既得権者の思惑に、知るべき情報も与えられていなかった。それがインターネットの新機軸出現によって逆転現象の様相を呈しはじめた。いまIT・ネットの革命期といわれるが、その逆転現象は始まったばかりである。
個人のホームページが世界規模で日々増え続けているが、そのキッカケは2001年9月11日アメリカ同時多発テロによって湧き起った政治に対する意見交換がwebサイトを加速させたという。インターネットはもともと法人向け企業を対象としたサービスが主流で10年前に始まった。まだブロードバンドも無かった時代で大手有名企業がいち早く導入し、そこにマイクロソフトのワード・エクセルが定番となりパソコンはマイクロソフトと同義語でさえあった。ある時代を形成した象徴的な社会現象で、それはかつてのIBMにも似る。時代が移りチープ革命の恩恵も手伝ってパソコンが個人で持てる時代となった。周辺機器と高性能OSが出回り企業業務パソコンから個人の趣味、高じてそれがブロ仕様にまで発展した。そしてあらゆる「表現能力」がパソコンによってなされいたる所に顔を出すようになる。梅田氏が指摘する玉石混交の「石」部分が怒涛の如く沸き出したのである。それが今である。それで判ったこと、これまで我々一般市民がなぞっていた権威とプロフェショナル世界は何であったのか、ということに気付き始めた。一方的に押し付けられる主観論、流行に乗じて売りつける音楽CDなど、よくよく考えてみれば、それらは偏った価値観で構成され自分個人の価値観とは相容れないものだった、ということに気付いたのである。それでも全体を支配するカタチは急激には変わらないもので近代社会の基盤である法人企業の力は依然として保たれている。そこでにわかに問題が浮上した。企業が死守してきた著作権をインターネットを通して大量に放出してしまう若いベンチャー企業に固陋たちが激怒した。それが自分達には明日がない、という保守的防御が働いた結果と、本人たちは気付いていないか、もしくは保守的意識の原点、「太陽が廻っているのだ」と頑なに主張するのである。
「かつてはテレビがアテンションの王者だった。人々はテレビだけにアテンションしていたのである。インターネットの登場でアテンションがテレビからネットへと少しずつ移りはじめた。このためテレビへのアテンションは相対的に減り始めている」と佐々木俊尚氏は、アテンションされるアーティストとコンテンツがインターネットへと移行していることを詳しく説明している。
それは全部「あちら側」の話で個人の「こちら側」とは無縁だが、ネット世界では「こちら側」個人の恨みつらみを公然にアピール出来ることが革命的なのだ。年間売り上げ5000億円のベンチャー企業とガス代の支払い5000円に苦労している個人では比較すべき基準が存在しない。
そしていま「こちら側」のパソコンが不調だ。前述したが、マイクロソフトの新バージョン「i・e7」をインストールして総てが狂ってしまった。その対策を講じ契約プロバイダー、パソコンメーカーにサポート連絡をしたが、いずれも解決策を得られなかった。早い話、マイクロソフトの尻拭いまで、当社は出来ません、ということなのだ。それは正論である。OSのインストールは自己責任内において、が原則で総てがその個人が責任を負う。だが、よくよく考えてみればサービスとは隔靴掻痒、その部分の痒いところに手が届く、という業務である筈で「他社の責任は負いかねます」と断っていたのでは、インターネット「総リンク」世界を人事と思っている、としか思えない。
また、それほど複雑に出来上がっているいるのがパソコンとプロバイダーとポータルサイトとIt産業で、さらに旧来メディアの既得権も絡んでいるから益々複雑怪奇な様相を呈している。
そんなことより自分のパソコンをはやく正常に戻したい。
(このブログをお読みのどなたか、恐縮ですが解決方法を教えて下さい。)

2006-06-22

富の分配アドセンス

年間売上5000億円、といっても一般庶民にとってはノー感じの数字で、一月5000円のガス代支払いに右往左往している生活者にとって別世界の話だ。Googleの年間売上5000億。
その98.8%がアドワーズとアドセンスの広告収入だと、本に書いてある。それを信じるしかないが縁のない話だから、それ以上の詮索も必要ない。

コンテンツターゲット広告と呼ばれるアドセンスは個人のホームページコンテンツに書かれた内容(具体的な名詞)をもとにアルゴリズム検索によって最も相応しい広告を掲載するというシステム。(このHPトップ広告を参照)
この話しを妻にしたところ、まったく理解出来なかった。と云うも私も最初は理解できなかった。
それで、いま私の「ブログ」に、この広告が載っている、クリックされる度に私の収入となる、と話すと「いくらになるの?」と聞くのでまだ手元に現金が届いていないから判らないが1万円程度と応えると、「良かったね」という返事。別に小遣いをせがむでもなく満足した様子。これには私自身も驚いた。
「インターネット世界で何が起こりうるか」という既成的事実の中で、モノを買うというアクションが一般的だ。当然にモノを買うための代償金を払う。アドセンスはその逆。インターネットを通じて個人の書いたブログ記事に広告を貼り、それを第三者が見てクリックした
回数によってサイト主に報奨金が支払われる、という前代未聞のシステムだ。それ故、そのシステムを理解するのに時間がかかり、そして妻はまったく理解できなかった。
たっぷり野菜のサラダうどん580円和風、いま旬夏スタイル大きいサイズ890円、天然酵母パンとケーキの店半額セール山の幸ビザ130円、とチラシに載った広告を慎重に吟味している妻にとっと、デジタルなネット世界は苦手のようだ。100円単位の買い物に一喜一憂する生活者だが、法外な5000億円を集めるには100円の品物を50億台のPC で注文を取ればいい。日本には推定で7000万台のパソコンが稼動しているというから世界中のPCを考慮したら荒唐無稽の計算ではない。
パソコンは極めて個人的な道具で、私が家の中でパソコンをやっていても家族は誰も覗かない。同じパソコンを娘が使ってもいても私も覗かない。そんな理由で一台のパソコンは二人の人間を相手にして、極めてプライベートに付き合ってくれるペット機械のような存在だ。妻は妻で、自分のパソコンを持っているが、もっぱら仕事のために職場で使っている。当然インターネットにアクセスしていない。だからアドセンスの話しを全然理解出来ない。
梅田氏の指摘する「ネットに住む人」、その正反対「使ったことの無い人」の格差は広がるばかりで二つの並行する線は磁力界SN極のように反発し接点がない。そんな現実の実態の中で私の起こしたアクション「アドセンス」に対して妻が抱いた私への応対は、驚き、戸惑い、羨望、敬服等々、複雑な感情が入り混じった「賛辞」ではないのか、と私は思った。単なる一家庭の他愛もない生活断片だが、その小さな生活を変えることこそが保守意識の改革、強いてはコペルニクス的意識改革の端緒である、とこの件で学びとったのである。
Posted by Picasa photo:幕張新都心のオブジュエ

2006-06-20

光電子倍増管?

Posted by Picasa スーパーかみおかんで(岐阜県神岡山)
の地下に設置されたチェレンコフ光観測の
光電子倍増管13031本でニュートリノを観測

と、良く似たこれは劇場の天井照明でした