2006-05-25

駑馬十駕

グーグルの創業者ラリー・ページ、セルゲイ・ブリン
の両氏は1973年生まれの33歳。
グーグルのシステム構築に大きく貢献したジム・リースはハーバード大学生物学科卒、エール大学医学部を納め、神経外科医の肩書きをもつ。歌手ギタリストでCDも出すほど、ほとんど「天才」といって良いほどの才能を持ち合わせている。グーグル創業当時に18人目の社員としてラリー、セルゲイの両氏を支えた。
現代のPCインターネット時代を創るのに多大な役割を果たしたビル・ゲイツ氏は1955年生まれで51歳。比較の対象になるかどうか疑問だが日本のITベンチャー産業に足跡を残した(?)「堀江」氏は 33歳でグーグル創業者両氏と同年である。
何れにしても若き創業者たちによってIT産業が牽引されている。業界のそんなシーンにいるビル・ゲイツ氏は世界の富豪の一人として、まさに帝王というべきか。
ジャンルは異なるがプロゴルフ界の立役者ジャック・二クラス氏が現役時代、ゴルフ界の帝王として君臨していた。が、老齢は避けられず、その桧舞台を若手に譲って随分時間が経つ。世代交代は必然的にやってくるものである。

Googleの全貌を理解する、とは私がこのサイトでブログを書くにあたり、宣言したことだがGoogleというアメリカのIT企業を懇切丁寧に教えてくれたのが
「web進化論」(ちくま新書)の著者「梅田望夫」氏である。といっても面識があるわけでもなく、私は単なる一読者の立場でしかない。本の内容を読み進み、アナログ的には理解しているものの、実際にサイト内に潜入して「AdSenseの使い方」となると自分でマウスを触らないと判らないのがPCである。そんな意味で駑馬十駕(どばじゅうが)、一日十里の超微速だか努力すれば天才
ジム・リース氏に肉薄する、という。(殆ど無理か?)

(クーグルに関する情報すべては「web進化論」による。今後もその情報は
梅田氏の筆に依存することを、この場で言明しておく)

2006-05-22

ダ・ヴィンチ・コード・?Ⅹファイル?の結末

今朝、仕事に出かける前にこのブログをチェックしていたところ、雲散霧消したはずの隠れ⒳ファイルが「粗大ゴミ」の中からヒョッコリ出てきました。いま書いている原稿が「ダ・ヴィンチ・コード」でしたから何かのタタリか?と恐怖におののいていましたがタタリでも何でもありません。単なる私の操作ミスでした。侮っていたのは自分自身で、お騒がせいたしました。平身低頭お詫び申し上げます。
それにしてもパソコンの操作方とは複雑(簡単安易)怪奇と、思うことしきりです。その原因をまず最初に言っておきましょう。
「投稿を編集」で、その表示欄ボタンがあり、数・内容・実行ボタンが3つ並んでいます。問題は真ん中の、すべて・下書き・現状、の3タイプの選択があって、「すべて」を表示していれば何も問題はなかったのです。ところがこの表示が「現状」になっていた。ただ、それだけの話しです。その結果、下書きしたはずのファイルが表示されず、本文訂正した訂正文が公開されない、という異常事態を引き起こしたのです。おまけに本文左脇のダイジェスト欄に、どうした訳か自分のプロフィール欄に書いたコメントが表示されています。そんなこと、どうやったら編集できるのでしょうか、不思議です。そうした経緯を一切知らず何かの陰謀かと早合点して、あらぬことをとりとめもなく書き綴りました。
それがⅩファイルです。いま判っている範囲で、その内容を記述しますと、5月20日「ダ・…、毀誉褒貶」3タイプ、5月21日「ダ・…、3」同様1、5月21日「ダ・…、ファイルミステリー」となっていますが、これは今朝22日の早朝に入力したものです。が、日付が21日になっている。これ、もしかしてアメリカ時間ではないでしょうね。今書いている原稿は紛れも無く22日付、ですから間違いなく22日の午前5時30分頃のデータと記憶しております。仕事の就業時間を気にしながら書いていましたから間違いない筈です。しかし、それらはⅩファイル化してますから過去に入力した情報が、その日付に摩り替わった、ことも考えられます。それを追跡調査したところで何にもなりませんが、未だにそのメカニズムが理解できませんし最大の関心事はプロフィール紹介文が記事と同様に公開されていることです。それが公開されて私が困ることは全然ありませんで、むしろ大っぴらにしてくれたほうが都合がよい内容です。その内容とはGoogle社が現在進めているハズの自動翻訳システムが早く完成して英語が出来ない私の手足になって貰いたい、といったような話しです。
それで、きよう、仕事をしている間にⅩファイルと自動翻訳機のことを考えていたのです。
自動翻訳システムは誰もが期待し待ち望んでいるコンテンツで、これが完成したら「世界の人々は皆兄弟」になるでしょう。異なる言語が国家を形成してきた歴史が、これまで人類の歴史ですから、それを一気に塗り替えるために必要な大変革の道具です。それが完成したら一揆や革命どころの騒ぎではない。コペルニクス的な大変革が起きるでしょう。
それで英語の出来ない私が、その翻訳機の変換作業を少しばかり考えてみました。例えば、ごく日常的な会話を想定し、「妻はGolfに行った」、という日本語を他国語にどう変換するかを思ったのです。
妻、は、ゴルフに行った、の場合、深い訳を含まない単なる行動を指します。しかし、妻とゴルフに行った、となるとただ事ではない。それは毎週か、毎月かそれとも一年に一回か、どんな理由があって「妻」とゴルフにいったのか、などイマジネーションの組み合わせが幾通りも考えられます。さらに、妻がゴルフに行った、となると尋常ではない。相手は誰か、家の者は知っているのか、初めてゴルフに行ったのか、お金はあるのか、仕事を休んでまでゴルフをするものか、有給を使ったのかそれとも代休なのか、自分のクラブはあるのか借り物か、ラウンド幾つで回れるのか、練習は積んでいたのか、などと数千通りのバージョンが考えられます。それをかりに日本語から英語翻訳、その反対、そしてそれ以外の世界の言語を「妻、が、ゴルフに行った」翻訳をするのですから大変な作業です。おそらの世界各国のエキスパートを集めて円卓会議的に作業処理するのでしょうから、つばぜり合いの応酬は必至です。そこに一寸でも宗教的内容が入ると怪しげな雰囲気が漂うことが想像されます。そんなことを考えただけでも、既に頓挫です。それに手を着けたGoogleはやはり先覚的です。頓挫せず是非とも完遂させて頂きたいと願うばかりです。  なお、この原稿を送信した後にⅩファイル編集処理をしますが、正しく編集出来るかどうか未定です。その際トラブル要因の一つである画像挿入はいたしません。
訂正、プロフィール欄の紹介は自動的に表示されるようです。今回初めて記入して気づきました

2006-05-21

ダ・ヴィンチ・コード と毀誉褒貶


映画「ダ・ヴィンチ・コード」について延々と書いて、毀誉褒貶の理由をさらに書き綴って文を結んだ、積もりで下書き保存し、再度本文訂正して「投稿を公開」クッリクしたのですが、訂正されていない。

可笑しいな、と思いつつ「クッキー」を頼って「投稿を復活」してみたが音沙汰がない。これまでの失敗経験から画像を先に入力してから文を書き込んだのが間違いの元だったようです。容量オーバーと、myPCの監禁状態がたたってパンクしたようです。それで書いた内容の本文などコピーしてませんから、初めからやり直し、ということになりますが、今更同じような内容を書けませんし、思い出せない。そうした経験は誰もが体験していることでしょう。これが仕事上で金銭がらみだったら大変なことです。それは実際あった話で証券会社の入力ミスで億単位の金が吹き飛んだことは既にご承知でしょう。下手をすると命と引き換えの賠償金額が待っているのです。

いや、そんなことを羅列して言い訳をいっている場合ではありません。ブログを書く、ということはそれが対価の無い行為だとしても一種のサービス精神ですから言い訳無用です。本当に期待させてしまって申し訳ありません。時を待って「ダ・ヴィンチ・コード」について書きたいと思います。なお、画像だけは覚えておりますので同じものを入れておきます。

ダ・ヴィンチ・コード と毀誉褒貶


映画「ダ・ヴィンチ・コード」が全世界で注目の的になっているようです。上映される前からストーリー内容が宗教的問題として話題となり宣伝効果に拍車をかけているようです。したたかな商業主義と穿った見方はいけないのでしょうか?
映画「ダ・ヴィンチ・コード」の原作は小説のようですが、作家ダン・ブラウンは40歳新進気鋭の作家だそうですが以前は教師をしていたらしい。そうした情報はインターネット上に満載で、とくに映像ダイジェストが効果的のようです。映画産業に手を染めた日本の電気メーカーS社が、ネットと同時進行でこの映画をプロデュースして、映画産業の新しい方向性を探っているようにも見えます。これと同じ手法でジェラシックパークがありましたが、そのような戦略はハリウッド的のようです。
かなり前の話ですが、グラハム・ハンコックの「神々の指紋」が世界的ベストセラーになったことを覚えている方も多いでしょう。いま出版界でハンコックの名前を聞いたことがありません。とかく大衆とは飽きっぽいし、売り手側は商売にならないとサッと引き揚げます。そして次の話題作が世を席捲する。この繰り返しです。なにしろ今は時間のサイクルが早い。時の刻みは宇宙創生ビッグバンより普遍ですが、概念で生きている人間世界は、時が延びたり縮んだりします。大きな塊がある同じ方向に向かって動いている。グローバルという名の下に世界の目がある基準値?を発信元として、世界全体が同時進行している様子がパソコンのインターネットを通して垣間見えます。
「ダ・ヴィンチ・コード」がよい例で、全世界の人間が同じ映画をほぼ同じ時間帯に観るのです。その内容は、絵画に隠された暗号がキーポイントになっていますが、それが宗教界でも問題となっているようです。隠された暗号とは、今更新しいものではなく歴史的にもコード化された暗号をつくった作者はいくらでもいます。前出、ニュートンの「秘密の箱」の中に秘められた錬金術原稿など挙げられます。17世紀頃、近代科学の夜明け時代、先取権を確保するのに科学上の暗号が考案されました。今の著作権保護のハシリでしょうか。
近代天体観測の第一人者ガリレオが考案した暗号をケプラーが解読したという映画より面白い実話が歴史上に残っております。
ガリレオの作った暗号、14種類37文字で作られ、これを並べ替え組み合わせで構成した。その時代、ともに天体運行に興味を持っていたケプラーはガリレオが作った暗号解読に取り掛かった。その結果、「ガリレオが火星に2個の衛星を発見した」、と誤訳したのです。これがどうして誤訳かという、話が面白い(じっさい火星には衛星が2個)。その当時の観測では火星に衛星は存在しないと思われていたからです。またガリレオは土星に衛星3個と観測していたが、それは星ではなく環であったのですが、本人手作り望遠鏡ではそれが確認できなかった。
コペルニクス以来の地動説、「天体の回転について」から今日まで飛躍的な天体観測結果が得られていますが、過去の歴史から学ぶべきものは多いのです。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」にまつわる諸説が世界中に渦巻いていますが、17世紀当時のガリレオとケプラーの応酬も毀誉褒貶(きよほうへん)があったことでしょう。褒めたりすかしたり、おとしいれたり壊したりと、だいたい批判的な態度になることが多いようです。それでも大真面目で過激な批判行動が余計に注目され、それが商業的に宣伝効果をもたらす、という昨今の社会事情は普通なのか、それとも異質な事態なのか判定が難しい。
今朝のことですが、海に出かけて日の出を観てきました。天体の運行とは関係なしに。千葉の外房に住んでいますから太平洋の海がパノラマで広がっています。水平線上にはなにも無く、そこに太陽が昇る景色は何度観ても飽きることがない。早速デジカメに納めてパソコンに入れました。上記の写真がソレです。そんなことが出来るなんてガリレオもニュートンもケプラーも、そしてダヴィンチも知らない。だが、彼らの傑出した才能がなかったなら今のデジカメ・パソコンは存在しない。
2006年というリアルタイム、パソコンの窓を覗いていると世界中の出来事が瞬時にして見ることが出来ます。今の世の中、殆どと云っていいくらい社会を観察するのにパソコンで用が足ります。それに没頭していると脳内の神経回路が活性し、それらが概念上の出来事バーチャル世界に移行しているような錯覚をおぼえ、太平洋に昇る太陽でさえWINDOW世界のフレームに納められていると、脳思考が勝手に判断しはじめているような気がいたします。これはすでに「サイエンス・フェクション」です。
これ、杞憂でしようか。??

2006-05-19


彫虫篆刻、(ちょうちゅうてんこく) 彫虫とは虫の形に刻むこと、篆刻は篆書体文字を象牙など印体に彫り込み印影を作ることですが、文字内容としては体裁を繕うことを云うようです。美辞麗句と同義語思えばいいでしょう。私は篆刻も彫りますが、ある日伐採した倒木杉の表皮下におかしな文様を発見して、それをよくよく観察すると、それは虫食い痕でした。そのスタイルが真に篆書そのもので古代の人間は虫から文字のヒントを得たのだ、と感慨を抱いたものです。
その篆書は古代中国の文化遺産でおそらく2000年以上の歴史があるでしょう。では何故それを現在の日本人が使っているのかという問題意識は、私がいましている雅楽演奏と根底で繋がっています。前ブログで書いたように奈良時代の遣唐使によって「唐の国」から持ち帰った、当時としては先進文化であったのです。古代中国の、その先進文化を約1300年間も堅持し継承してきた日本国は保守という意味では世界に例をみないでしょう。そうした先人の文化文明を尊び保護してきたのが天皇制です。初代天皇は神武と云われてますが、これは神話世界で、そのことを記紀は明確に記しています。西暦672年に天皇として天武が即位しておりますが、このときより「天皇」と称したようです。
世界の古代遺跡に共通することは、当時の君主であった強大な権力者は皆一様に贅沢な墳墓を造らせています。古代日本も同様で、きらびやかな副葬品が墳墓から発掘されることがあります。
ここに載せた上記写真は「ヒラカ」といって古代古墳に埋葬する品の一つでした。祭祀に用いた品を埋葬者が黄泉の国でも使えるようにと、一緒に埋葬したと考えられています。これは古墳時代に作られた「焼き物」で酒の器のようです。その時代が古いため「焼き物」の原点が濃縮して詰められています。表面の施しが釉薬ではなく、窯の中で舞い上がった灰が釉となって独特の雰囲気を醸しております。これは紛れも無く第一級のアート作品です。それをパソコンのネットに公開できることが現代社会を象徴しているような気がいたします。
photo: ヒラカ 推定約1600年前

2006-05-18


私のホームページにGoogleのロゴを勝手に貼り付けました。そのロゴを使用するにあたり、色々な使用条件が表示されていましたが、それを読んで理解するのも煩わしいので提供ロゴタイプを選んで試しに貼り付けてみたところ簡単に出来たので、リンク欄にグルーグル広告の意味も含めて暫らく公開していました。ある時(きょう18日のこと)、クーグルより送信があって、ロゴ使用にあたり承諾を許可しておりません、という通知が届きました。
やはり、と内心思ったのですが知的財産権保護の厳しいアメリカのことですから当然といえば当然です。そこいらの感覚ギャップの差があるのは確かでしょう。そのリアクションを貰ってから客観的に考えてみたのですが、私の個人的なホームページにGoogleロゴを添付し公開することによって、まったく事情を知らない第三者は私のページがGoogleによって提供されている、と思われる可能性もあります。そうなると私の書いた記事内容如何では責任問題がGoogleにも波及することだって考えられるわけです。
早速、Google ロゴを削除しました。
インターネットのバーチャル世界は架空現実社会の出来事である、というこれまでの歴史上に存在しなかった空間ですが、その裏側でPCを操作しているのは生身の人間です。そして、この架空世界がいま一人歩きして将来の世界経済を担う救世主になると注目されています。その覇者となるべく最先端企業がGoogleであると洞察力のある人間は評価しているようです。その将来的価値がどれくらい高いのか私は知る由もありません。

 photo: 納曽利 面の模写

インターネット上には色々なタイプのフリーソフトが出回っておりますが、中でもOSメーカーが提供する「体験版」は高価なソフトを期間限定で使うことができます。私も何度か使って重宝しましたが30日間限定というのがミソです。一番多いのがphotoソフトですが、日本の新聞・テレビと同じで各社レイアウトの違いはありますが中味は殆ど同じといって良いでしょう。
あるとき、大メーカーのphotoソフト「お試し版30日限定」を使ってました。使い始めは不慣れで思うように作動しませんが、次第に勝手が判るとソフトの良さが判ってきます。その頃になると期間終了の日数が迫ってきます。自分で撮った写真の背景処理をソフトを使って余計な部分を消して思い通りの写真が出来ました。コレは凄いソフトだ、と二つ目の写真を同じように編集しようとしたところ「期限切れ」で、その肝心の編集が出来なくなりました。期間終了で総てのOSが消えたのではなく、どうでもいい新聞テレビ的なバージョンは残っていましたが、どうでもいいありきたりのソフトですから、どうでもいいのです。ここで30日期間限定の有用性が発揮されるのです。「どうですか、うちのソフトは他とは違います。何だったらお金を出して買ってみては?」という企業戦略がミエミエです。ですから戦略に引っかからないように買いません。
多くのユーザーがそうであるようにパソコン内ネットで遊んでいることは趣味であって、そこから利益を得られません。従って高価なソフトを買うだけのメリットはないのです。だからフリーソフトの家捜しが始まるのです。それから或る事を考えましたがソフト信託というのが考えられないでしょうかね。海賊版ではなくて正規のルートで高額ソフトを何人かで分割購入し共有して使う。かりに10万円のソフトだったら10人で一人1万円、100人だったら1000円で済みます。そんなシステムがどこかにないものでしょうか。
換骨奪胎、期間限定無料体験ソフトを使ってそんなことを思いました。カンコツダッタイとは、骨を換え、胎を奪って、それに成り済ますことのようですが、どうもこの語源は古代中国戦乱中から出たように思われます。胎を奪うとは敵対する血族の芽を完全に摘むことですから凄惨です。それは余り関係ない話しですが、無料限定ソフトを使い出来上がった写真やイラスト作品は保存して自分の手元に残りますが、それを処理した「機械」は手元にない。言い換えると魂だけがフワフワ浮いている状態で本体のカラダは消滅している。
「一体、この状態をどうしてくれるんだい」とOSメーカーに問い合わせても、「当社製品は信頼をもってご提供させて頂いております」、と丁重な挨拶で交わされるのがオチ、か?

2006-05-16





breakthrough:
というタイトルで色々書いて画像処理している間に、ストックした文が全部消失してしまいました。これこそパソコンの醍醐味。寛容なる精神をもって我が身もパソコンから寛容を学ぶetc.…。

photo:煙り粒子4version

「米国で働きたい人にとってグリーンカード取得は素晴らしい幸運である。でも日本の大学を卒業して日本でしか仕事経験のない28歳が抽選でグリーンカードを取得して渡米すれば、ある意味、徒手空拳の就職活動が待っている。就職時にグリーンカードを持っていることは、ビザをスポンサーしてもらう場合よりは条件がうんといいが、それ以上でも以下でもなく、とても厳しいことが待っているはずだ」。

徒手空拳・一言でいえば「裸一貫」、財産も頼るべきコネも何も持たない若僧が現実社会に向かってゼロから創めること、を云っている言葉で、上記引用例では、28歳の男性がグリーンカードを携えアメリカで仕事をしたい、というようなケースを梅田氏が相談を受けたそうである(web進化論、終章脱エスタブリッシュメントへの旅立ち)
梅田氏はいま、日本の若者をシリコンバレーに移住させようと「シリコンバレー移住計画」をNPOで立ち上げ20年計画で完成させる、という構想を練っている。その「大いなる空想」を実現するために確かな一歩を進み始めた。いま梅田氏46歳、20年間で66歳である。何もしてくれない日本のエスタブリッシュメントに対する隔靴掻痒感を、この構想で一気に打破しようとする気構えだ。そうした中で徒手空拳に晒される若者を「私」がバックアップしようと梅田氏、乾坤一擲(けんこんいってき)の行動に出た。
私がこれを読んだとき、フッと思ったのは奈良時代の遣唐使を彷彿とさせた。
遣唐使は朝廷(元正天皇)肝いりの国家プロジェクトである。その時代の先端文化・技術をもつ「唐」から学ぶという国家計画である。そして、それから1300年経過した近代日本の文化は何か、と問えば、その時代に唐から導入した文化・技術が今でも生きている。
私の体験談から具体例を挙げれば「雅楽」がそれだ。私は今でも雅楽演奏者として現役だが、この歴史は唐時代の遺産文化である。当時の遣唐使の一人、なかでも右大臣吉備真備は「政・まつりごと」に欠かせなかった式典奉奏
の雅楽に関する文献を持ち帰っている。
その時代と現代社会の形態は、まるで異なるが先端技術を他国に学ぶ、というのは今でも同じである、という実態を梅田氏が見せてくれた。その内容とは、アメリカ、シリコンバレーの持てる先端知識を、奈良時代当時の「若僧」であった吉備真備と同じ若年年代層に吸収させるというプロジェクトである。
本来これらの仕事は国家サイドでしなければならない計画だが、エスタブリッシュメントに業をにやした梅田氏は、一人船出したのである。そのこと、こそが日本人たらしめる大きなfactorではないか、と雅楽演奏者は思うのである。

2006-05-14



隔靴掻痒(かっかそうよう)、履いた靴の上から痒い足を掻くなんてことは出来ませんから、痒いところに手が届かない欲求不満を現した言葉です。自我の強いタイプは、そうした不満を常日頃抱くようで私などは、その筆頭ですからこの言葉を良く使います。「Web進化論」の中にも使われているので紹介しましょう。
「ネットの世界に住まない人々に最先端の話をするために要するエネルギーは回を追うごとに増すばかりなのに、議論してもそこから何かが生まれる感じがしなくなった。隔靴掻痒の感はどんどん大きくなっている」。
著者、梅田氏がエスタブリッシュメント層に対して抱いている「募る思い」を、そのような表現で「アアなんとかならないものかなあ」と嘆いている様子が、その四字でこちら側の読者に伝わってくるから、やはり漢字の威力というか説得力は凄いですね。
しかし、ですね本を読む、書籍が店頭に並ぶというのは、その活字を読んで理解するというのが大前提ですから最低限の約束事、読み書きが出来るという識字率の問題でもあります。こんなことを云うと「何を血迷ったか」と批判されそうですが、日本は世界有数の識字率を誇ります。それ即ち歴史的な学校教育の結果でもありますが、ほぼ100%近い国民が字を読めるというのは個人の持つ表現力が豊かであることです。
もっとも具体的な例がパソコン・インターネットで、まず字を読んでその内容を理解しないことには、まったく前に進みません。これはアナログ的な直接会話の電話交信とは次元が異なります。そんなことでも識字率が高いということはIT産業の市場パイが他に比べて断然有利な条件を備えていることなにります。梅田氏が期待する若い世代の台頭が、そこに見える気がします。

2006-05-12

ニュートンの秘密の箱
という題名の本が出版から出ております。
(小山慶太著 丸善株式会社) これが中々面白い。
ニュートンの逸話が余すところ無く紹介され、
とても興味深い内容です。
物理学者のスーパースター、ニュートンが錬金術師であったと紹介すると、なにをバカなことをいってるのか、といぶかる事でしょうが約300年前の世相を考えると、アアなるほどと納得される内容です。E=mc2で、その名をとどろかせたアインシュタインもニュートンの古典を学んでいたようです。

ことの発端は1936年の7月ポーツマス伯爵家に代々伝えられていた「箱」、いやパンドラの箱ではありません。でも、それらしい箱ともいえますか。ロンドン、「サザビーズ」オークションに登場したその箱に中にはニュートンの直筆手稿が眠っていたのです。その貴重なオリジナル手稿を経済学者「ケインズ」がその半分を落札したのです。ケインズは箱の中を覗いて驚いた。
その時の驚愕とも驚嘆とも形容しがたい心のショックを「ニュートンの秘密の箱」が伝えているので、そのまま引用します。
「65万語にも及ぶ錬金術のノートだったのである。その量のあまりの多さにケインズは『数学と天文学とは彼(ニュートン)の仕事のほんの一部にすぎず、おそらく最も興味を引いたものでもなかった』と呟いたほどであった。つまりニュートンが生涯にわたり最も熱心に取り組んだものは錬金術であったと考えたのであろう」
まさにニュートン原稿はパンドラ的箱に匹敵する中味であったのですが、その箱を吟味した人物が世界的な経済学者ケインズであったことが幸いし、その話しに信憑性を与えたのでしょう。
ともかく歴史的逸話とは簡単には生まれないようで、時間的幸運と社会的に信頼される二つ(二人)の要素がピッタリあった時に生まれるようです。

2006-05-11

量子力学、とは専門物理学の用語ですから一般的に使われることはありません。詳しくは「量子論」のことで素粒子を云います。そのことについてファイマン氏は平易に説明し、古典ニュートン力学の概念をもって量子力学を考えてはいけない、と教えています。
丸善出版社から出ている「いまさら量子力学?」の広告が、その内容を凝縮して書いてありますので紹介すると「量子力学が描き出す自然の姿は私たちの常識に反する面をもっています。しかし、その誕生から65年を経過した今日、量子力学の基本的部分の理解は理論的にも実験的にも急速に進歩し、応用面への展望もふまえて新しい段階へ進もうとしています。素粒子の世界からマクロな超流動・超伝導まで、あらゆる場面に現れる量子力学特有の不思議な現象」。
この量子論についてアインシュタインは次のように語っています。
「量子論の根幹となる思想の特質をごく短く述べるとするなら、こう云っていいでしょう。従来は連続的なものとして見なされて来たある物理的の量は素量子から構成されている、と仮定されなければなりません。量子論で論じられなければならない事実の範囲はいかにも広いものです。そしてこれらの事実は近代において実験技術が著しく進歩したことによって明らかにされて来たのでした」。
チョッとばかり難しい、いや全然理解出来ない内容です。量子とは素粒子で原子核のことを云っているのですが、超ミクロ世界の物理現象ですから人間に関知出来ない領域です。しかし現実世界、拡大して全宇宙のシステムはこの量子によって構成されているのです。そのことに関してニュートン力学以前まで人間は知ることがなかった。紀元前ギリシアの古代自然科学を継承したニュートンのアナログ的自然物理学が根底から覆されてしまった、それが量子論です。この大変革がいま、インターネット上で進行している、と推論するのですが、どうでしょう。
ある「生き物」Aがそこにいた、と仮定します。その目の前には粗目の格子状の檻があり中に好物のエサが置いてあります。「生き物」Aは格子目の寸法よりズッと小さく簡単に素通りできるサイズです。壁に開いた孔をすり抜ける鼠を想定しても結構です。「生き物」Aはサイズか小さいため檻の存在などまったく気にしません。好物のエサは食い放題です。生き物は自然の摂理に従って成長しサイズが大きくなります。そのことを生き物本人はまったく自覚していません。やがて檻の格子目サイズより大きく成長したAは檻から出られなくなります。それでもエサは与えられていますから喰うことに専念し、檻の外の世界を忘れ去ってしまいます。エサは全宇宙に与えられた「時間」と換言してもいいでしょう。
我々人間は、この檻の中に閉じ込められた「A」と置き換えることができないでしょうか。宇宙のサイズは宇宙創生「ビッグバン」以来より決定されている、と解釈することが前提で、その仮説理論が基本です。したがって時間の単位がどのように決定されているか、という宇宙のナゾを解かない限り、総てが仮説に留まってしまいます。
檻のサイズとは銀河系の運行、限定して云えば太陽系の周期に、いささかの変動もないということです。決定されたサイズの中で徘徊する生き物・Aは成長するメカニズムDNAは与えられていますが、予め決定された檻サイズと、自分自身が大きくなる、というギャップを埋められないまま、人類はこの2006年を迎えた、と断言することは魑魅魍魎(チミモウリョウ)でしょうか。
生まれたばかりのサイズというのは総てが小サイズで物理学的に量子であり素粒子と見ることができるでしょう。それは全宇宙の普遍的なサイズと決定されていると思えてならない。では檻のサイズが何故変化しないのか、という矛盾が立ちはだかりますが、そうした矛盾こそがニュートン以来の古典力学ではなかったのか、と真に恣意的な意見ですが考えを羅列してみました。
だからといって私が大学でニュートン力学を学んだ、ということではありません。この分野においてまったくの門外漢で素人の浅学と非難されても反論すべき論拠は何も出ません。だからこそblogの真骨頂が発揮されると自画自賛しているのです。

玉石混交、宝石と道端に転がる石が混然となって見分けが付かない。解釈として良いか悪いかの区別がつけにくい、とかミソ・クソなど、どれがホンモノなのか判然としない様を著わします。「web進化論」の中で梅田氏が良く使ってい漢字です。その使い方を文中一節を引用して紹介しましょう。
「普通の人が何かを表現したって誰にも届かない、が当時の結論。でもそれ玉石混交の厖大なコンテンツから玉を瞬時に選び出す技術が当時はまだほとんど存在していなかったからである」。
文中内容は、いま世界中で進行しているインターネット上の「作者」が提供する多種多様なコンテンツを選び出すPcのテクニカル部分が未成熟であった時代では、その中から「宝石」を探し出すことが困難であった、ということです。
そのことは私のPc経験上からもまったく同感の意見です。私はamateur musicianとして今も現役で、主に雅楽を演奏していますがインターネットを通して洋楽の自作曲を公開しております。その音楽サイトは日本の楽器メーカーがamateur音楽家を広く一般から募集して曲を配信するというサービスです。デジタル音楽の飛躍的発展で楽器がなくてもパソコンだけで曲が作れるというインフラが整っていますから年齢の制限無く誰でも簡単に曲を投稿することが出来ます。そこには梅田氏の指摘する「石」が無限大で拡散しているのです。中にはプロも混じって曲を公開してますが、それは聴くと直ぐ判ります。巷に氾濫する「音楽」と何ら変りがなく無難ではあるけれども「面白味」に欠けるからです。そのことは梅田氏の云う「ロングテール」世界の枠と一線を画した世界で、それは恐竜の首の世界です。インターネットの可能性とはロングテールの厖大な潜在能力開発ですから、まず圧倒的な量の「石」探しから始まる訳です。その探している当人は誰か、というのが問題で権威者、研究者、評論家、既存メディアなどではありません。「プロフェッショナルとは何か」、「プロフェショナルを認定する権威とは誰なのか」という梅田氏の問い、はたまたアメリカで今もっとも関心のあるその「定義」が重要なのです。

2006-05-09


異口同音、とは異なる人間の口が同じような意見を発言する、という意味の直訳になるでしょう。詳しくは、大勢の人が同じ意見を口にする、と辞書では解説してます。
それをブログのタイトルにした訳ですが、ブログとは世界の口であり開かれた言論の場です。それは旧来から唱えられた個人的な言論意思主張の自由とは違って、もっとフリーな立場で他者の誰からも影響を受けることなく、なおかつ客観的論調を持ち合わせた「市民の声」がブログである、と理解してます。そこには最大公約数的な一般論を基盤にして細部において個人的見解を述べているのが理想です。そうすると必然的に「異口同音」的意見に落ち着くでしょう。
四字熟語はモノゴトの成り立ちを漢字4字で表現し、たった4字で世界観を著わすよう構成されております。異口同音、と類似する意味の「衆目一致」がありますが、これは殆ど使われていないようです。意味はまったく異なりますが、次の例で医食同源というのがあります。読みが多少似ていますが、その意味は、薬も食事も同次元にあって食生活の中にも医療の根源的な要素が含まれる、との教えでイントネーションの読みが似ていても全く違った意味です。漢字は情報伝達の手段の一つですが英語と違ってビジュアル感があり、
絵のように一目見て、この字は何を意味しているか、というのが一目瞭然で非常に直裁的です。ですから、いくどうおん、と、いしょくどうげん、と平仮名で書いては何の意味か判らないものを漢字にすると瞬く間に判断できるという便利なツールです。